<弐> こころこわすね


 

 相手の言葉が理解できずに眉を顰める。予想の範囲内ではあったが一番当たってほしくなかった予想でもある。声を荒げて否定する気にもなれず、これまた厄介なことになったなと半兵衛は口を強く引き結んだ。
 振り向いていた身体をまた正面に向けて白拍子を先へと促す。
「………もうすぐ部屋につきます。今日はそこでごゆるりとなさるがよい」
 踏みしめて歩き出した渡り廊下の後ろ、華子と茜が黙って付き従う音が続く。実に歯がゆい空気が流れているのを察したが、ここで後ろを振り向けば相手がさり気なく微笑んでいるだろうことも予測できて、だからこそ意地のように彼は振り向こうとはしなかった。
 屋敷は庭を挟むようにして東の棟、西の棟と分かれている。間を分かつ庭はさして広くもないため木々の向こうに反対側の渡り廊下が透けていた。向こうを歩く人々の顔まで識別できる程度の距離だから、互いに目が合えばそれとなく会釈しあう。
(―――おや?)
 行きかう人々の中に燃え立つような髪をした人物を認めて歩を止めた。確か彼の呼び出しを受けて秀吉は席を立ったはず―――と、なれば会合は終わったのだろうか。庭を挟んで丁度反対側に光秀の姿を確認し、声をかけたものかとしばし半兵衛は逡巡した。
 見つめる内に彼も半兵衛たちに気付いて面を上げる。遠目ではあるがひどく気遣わしげな表情をしているのが窺い知れた。聡い彼のことだ、おそらく秀吉の微妙な変化を感じて迷っているのだろう。半兵衛たちの主は傍にはいないらしい。
 ―――「何か、あったのか?」
 声は聞こえずとも僅かに口を開いた彼の様子から疑問が見て取れる。
 何かあったと言えばあったのだが、果たしてそれを告げてよいものか。下手をすれば利用されかねない内容であるし、だが、華子の引き取り先を決める話し合いにもとより光秀は同席していたのだから隠そうとするのも今更か。
 いつものように軽く手を掲げ指先の動きでさり気なく意図を伝える。それは光秀が墨俣にしばし滞在した折りに始まり、京までの進軍を経て自然と形作られてきた合図だった。余程気をつけなければ分からない些細な動きは、動かし方が決まっている訳でもないのに不思議と意思の疎通に苦労しなかった。
 後で話し合おう―――そう、合図を送ろうとした瞬間だった。
 トサリ、と物が落ちるような音が後ろで響いて半兵衛は思わず振り向いた。訝しげに顔を向けた先で華子が腰が砕けたように座り込んでいる。茜が背を撫でさすっているが意識は遠いようだ。
 気付かれぬような微かなため息、半兵衛もひざをついて彼女の前に顔を寄せた。
「華子殿………如何なされた」
「も―――申し訳、ございませぬ」
 すぐにも消え入りそうな声音で華子が答える。床についた指先は細かく震え、顔面は蒼白、唇まで色を無くしていた。
「申し訳、ござい、ませぬ。ただ―――嗚呼、ただ、ただ、向こうからの視線が………」
「向こう?」
 顔の向きは変えぬままにちらりと光秀がいるであろう廊下を窺う。なるほど、確かに光秀以外にも数名の武将がいた。そして彼らは例外なく話題の渦中にいる白拍子に好奇の視線を注いでいる。ただでさえ男性を恐れている華子がかような目に晒されれば気分が悪くなるのも無理からぬ話か。
『でも、それじゃあ白拍子なんてやってられないだろう?』
 内面で呟かれる相棒の言葉は正論だ。
 正論だが、それが誰にでも当てはまるかというと話は別だ。将軍の御前演舞に加えていきなりの身請け話、疲れても仕方あるまいよと結局のところお人好しである彼らは首を傾げつつも彼女の言い分を受け入れる。
 軽く相手の肩に手を添えた。
「立てますか?」
 黙って首が横に振られる。
「肩を貸しましょう。歩けますか?」
 またしても首が同方向に振られて途方に暮れた半兵衛は瞼を閉じる。
 ―――本当は、嫌なのだ。こんな人目のあるところでは確実に噂になるだろうし、秀吉の耳に入るかと思うと気も重くなる。かといって茜にさせるのは酷であるし外聞も悪く、このまま放置しておけばますます野次馬が増えるだろうことは火を見るよりも明らかであった。
「茜、お前が先導に立ってくれ。………失礼」
 部下が己の横をすり抜けるのを確認するより先に、彼女の背中に右手を、膝裏に左手を滑り込ませて抱え込む。抱き上げた身体は思ったよりもずっと軽かった。
 半兵衛は滅多にそんな真似などしないと知っている部下の瞳が僅かに揺れた。しかし茜は、すぐさま何事もないように硬い表情のままで正面に向き直り、つ、と音を立てずに廊下を歩き出した。
「ありがとう―――ござい、ます」
「お気になさらず。まあ………これで良からぬ噂が立つやもしれませぬが」
「ええ、でも………」
 弱々しいながらも笑みを閃かせた華子はおずおずと伸ばした両腕を半兵衛の首へ回した。幼子が親に縋りつく如く、強く、相手の首もとにしがみ付く。半兵衛のすぐ目の前でうなじの後れ毛が揺らいだ。
「半兵衛様は、とても、あたたかい―――ほっとします」
「………」
 言い返しかけた口を噤み、ただ、眉を顰めた。さいわいにしてこちら側の廊下には人影が絶えている。早々に角を曲がり対岸の連中の視線をかわすべきだった。心なしか足を速めて部屋への道を急ぐ間、ずっと、華子の顔は半兵衛の肩口に伏せられたままでいた。

 ―――だから、気付かなかった。
 茜は先導に立ち、半兵衛は抱きかかえた人物の表情を見て取れることはなく、傍に他の人影もない。
 だから、誰も。

 華子の口元に刻まれたほの暗い微笑みには………誰も、気付かなかったのだった。




 冬の光はまどろみの中。吹き付ける風は心地よいと呼ぶには寒すぎて、ひたすらに枯れた木々の葉を揺らしている。
「聞いているのか?」
「聞いておりますとも」
 先ほどから繰り返されている幾度目かの問答に光秀はため息をついた。東と西の棟の中間辺り、常に会合に使われている室内で正面に座り込んだ男の横顔をじっと見つめる。どこか不貞腐れた表情で男―――秀吉は、両腕組んでそっぽを向いていた。乗り気でないことを隠そうとしたところで滲み出る雰囲気でバレバレだ。いつもなら鉄壁の笑みを浮かべている男が随分珍しいじゃないかと内心でぼやく。
 秀吉を呼び出したのは城内の警備状況を確認するためだった。「華子」という外部因子が増えたことで自然、見回りの手順も変わってくる。彼女の身柄を木下組が預かれば負担も増えよう、ならば他で割り振るべきかと相談し、あわよくば外界の敵への対策も練りたかった。
 しかし彼はどこか気もそぞろ上の空、思考に霞がかかったか呆けたか他のことに夢中なのか、あれ程戦習いに関心を示していた男と同一人物とはとても思えない。
 挫けそうになる己を叱咤して再び光秀は口を開く。
「時期が問題だ、とは思わぬか」
「時期?」
「白拍子殿が留まるが故に将軍は年始の祭事に俄然やる気を出している。浮かれ騒ぐは頃合と連中が動き出すとは考えないのか」
「連中―――ですか。誰が来たところで守ればよいだけのこと」
「それが誰を示すのか分かっておるのか? おそらくは三好衆、生半可な備えでは対処しきれまい。半兵衛とて」
「半兵衛が、何か」
 ここに来てようやく秀吉の瞳が真っ直ぐに光秀を見据えた。少しだけ不機嫌そうな色合いが眉間に見て取れるのも、また、珍しいことである。
「………彼なら既に偵察ぐらい放っているだろう。何か聞かされておらなんだか」
「うちの軍師は秘密主義ですからなぁ」
 それはまあそうだろうが、と頷きかけた光秀を尻目に秀吉は腰を上げる。ガラリと障子を引き開けて素早く足を踏み出した。
 座ったままの光秀に一瞥をくれる。
「こちらの警備状況に関してはまた連絡致しましょう。部下とも話し合ってみなければなりませんのでね」
「ま、待て、まだ話は………」
「失礼。急用を思い出しました」
 呼び止める暇もあればこそ、会談相手は素っ気無く場を立ち去ってしまった。光秀はひとり取り残されて途方に暮れる。急に呼びつけた己が悪かったのか、単なる相手の虫の居所の悪さかと、気苦労の耐えない生真面目人間は深い深いため息を零す。
(しかし、幾ら呼び出しが不服だったとて)
 普段の秀吉ならば外面取り繕って笑みを絶やさずにねぎらいの言葉のひとつもかけてきたはずである。腹の探り合いなんざしたくもないが、秀吉の言葉にはそれでも若干の真実味が感じられるので他の武将たちとの面談よりはずっと気楽に行えていた。
 なのに今日の秀吉ときたら会話は食い違うわ目線は合わさないわ勝手に話を中断して出て行くわ、およそ常の彼らしくない行動ばかりとっている。白拍子の行き先を決める時にも感じた違和感は此処に来て増大しているようだった。
(半兵衛に会っていくか………)
 自分などよりもずっと傍近く秀吉に仕えている男である。此度の変貌は疾うに知れているだろう。城内の警備とて彼と相談した方が早く済むかもしれなかった。
 廊下に足を踏み出して、秀吉の姿が既にないことを確認する。いまの時間帯ならば木下組の軍師は己の棟にいるであろう。呼び出した段階で彼は秀吉と話し合っている最中だったようだし、よしんば入れ違いになったとて誰かに言伝ぐらいは頼めるはずだ。
 右手に廊下を折れ、何の気はなしに庭を彩る木立を眺めた。寒さ厳しい時節だ、枯れ葉さえ殆どありはしないが、それでも降り積もった雪が白い衣のように木々に纏わり付いて風情を醸し出している。こういった景色を将軍は好むし、光秀も気に入っているのだが、如何せん根っからの武士が多い織田においてはなかなかに理解されにくい心情であった。「確かに綺麗だな。それで?」となってしまうから光秀は無言を貫くしかない。己を抑え込んだ日々が鬱屈の元となるのは言うまでもなく―――だからこそ半兵衛との会話は一服の清涼剤になっていた。
(秀吉とも………話が合わない訳ではなかったんだがな)
 様々な個性がひしめき合う織田家において木下組の一派は比較的つきあいやすい部類に属した。賢しくとも愛嬌のある秀吉、合法磊落な小六、気配りのできる秀長、戦災孤児として引き取られてくる優秀な小姓たち、美濃の麒麟児と、ともすればてんでが勝手に行動しそうな団体が上手く纏まっている。それもこれも長たる秀吉の人望ゆえなのだろうか。
 ぼうっとしていた光秀は、やや遅れて透かし見る反対側の廊下に見慣れた影が歩いているのを確認した。
 ―――半兵衛と、茜と、そして。
 見知った軍師の片腕だけではない軽やかな白い衣が翻るのを知って僅かに眉根を寄せた。
(白拍子殿もご一緒、か)
 半兵衛と視線が交錯する。彼はどこか疲れきった表情をしていた。
 と、すればやはり彼もまた秀吉の微妙な変化に気付いたのだろう。
(―――何か、あったのか?)
 ほんの少しだけ唇を動かして問い掛ければ相手は困ったように目を伏せた。簡単に告げるには憚られるということか。半兵衛が垂らしたままだった腕をやや前方に持ち上げる、それは何と言うことのない仕草だったが慣れた人間には彼の意図が見て取れる。「いまは、まだ」―――つまり、「後で話し合おう」と言いたいらしい。
 光秀が頷きを返すよりも僅かに早く、突如として半兵衛の目が横に逸らされた。背後で白拍子が床に蹲っている。気分でも悪くなったのか、茜が彼女の背に手を当て、半兵衛が言葉をかけている。
(………それにしても)
 不謹慎だな、と思いながらも光秀は彼らを眺めて感心した。黒髪の白拍子と色素の薄い軍師が互いに顔を寄せ合って囁いている様は、喩えるならばまるで絵の如く―――。

 お似合いだった、のだ。つまりは。
 ものすごく。

 徐々に立ち止まる人間が増えてくる。見知った者同士で囁きあう内容は光秀の感想と大差ない。
 どうするのかと光秀が心配そうに見つめる中で半兵衛は何を考えたか、突如、白拍子を抱え上げた。連れに道を先導させて淡々と廊下を辿り、垣間見える横顔は不機嫌そうであり不服そうであり不満そうでもあり、とにかく、予期せぬ事態に彼自身は納得いっていないのだと察せられた。これ以上留まればより一層見物客が増えるだけだと、苦渋の決断だったのだろう。
 あるいは、他の方法を考えるのが面倒くさくなってしまっただけなのかもしれないが。
 時折りあの軍師殿が天然ぼけをかますことを光秀は知っている。
 だとしても、とこっそり彼はため息をついた。周囲には同じく呆気に取られて彼らを見送っている武将たちが何人かいる。自分はともかく、彼らは自陣に戻ればいま見た光景を面白おかしく吹聴するだろう。遅かれ早かれ秀吉の耳にも届き、おそらくは軍師が望まない形で知らされるであろう場面は果たして織田にとって有益なのだろうか。
 お似合いのふたりだとか軍師殿は白拍子に懸想しているとか逆に白拍子が軍師を頼りにしているだとか、根も葉もしっかりある噂が翌朝から城内を駆け巡るだろうことを考えて光秀は僅かな頭痛を覚えた。
 どうしたものかと呟きながら自室へ引き返す光秀はふ、と思い至って歩を止める。
 ………結局、いまの騒動で半兵衛との連絡は途切れてしまった。後で話し合うも何もあの様子ではしばらく軍師は多忙の身の上になるだろう。彼女が倒れるのがあと数瞬、遅かったならば夜間に会おうとの合図ぐらい送れたというのに。
 だから、まさか。
 まさか―――とは、思うのだが。

(白拍子殿が邪魔をした………などと)

 自分たちの会合を防いだところで彼女には何の益もない。
 単なる思い違いだと、浮かんだ考えを苦笑混じりに振り切って再び足を進めた。




 ―――夢の中の人物は相変わらず笑っている。

 もう、見つけた。
 もう、捕まえた。
 ほら、もうお前は、なるようになるしかないんだよ、と。

 笑みを零しているのが分かる………腹立たしいことに。
 更に腹立たしいのはその影に微妙な戸惑いや恐れを感じてしまっている事実。
 この人物とは生涯、理解しあうことは叶わないのだという確かな予感。
 闇の中の追いかけっこもいずれは終焉を迎える。その時はじめて自分と『彼』は面と向かって相対するだろう。向こうはこちらの事情も正体も知っている、けれど、全くもって不本意なことにこちらには『彼』を知る手立てが存在しないのだ。

 ―――かくして。
 半兵衛の目覚めは今日も最悪であった。




 このところ日課と化しつつある額を抑えて思い切り眉を潜める仕草を今日もまた半兵衛は繰り返した。爽やかな朝を迎えたいのに最近の夢見は悪すぎる。布団からの起き抜け、縁側に腰を下ろしてしばし外を眺める。身体が丈夫ではない半兵衛のために割り振られた奥の間付近は周囲に人影もなく、猫の額ほどの広さの庭についた万両の実がやたらと目に付く。
『―――いつまでもこうしてたって仕方がないな』
(確かに)
 相棒に同意を示してやれやれと腰を上げる。以前は仕事に出かけるのが楽しくてならなかったのに、いまでは考えただけで気が重くなる。本当に人間関係は大切なのだなぁと頷いてしまうこともしばしばだ。
「お顔の色が優れぬようですね。………休まれた方がよいのでは?」
「そうも行くまいよ」
 朝食を持ってきてくれた佐助に苦笑を返す。
 そう。
 今日も、明日も、公式の場に赴かない訳にはいかない。なにしろ『時の人』たる白拍子殿が将軍より要請を受けて舞いを舞うのだ―――他にたくさんやることがあるだろうと、ひとり突っ張ったところで立場が危うくなるばかり。
 食事を終えて仕度を整える。少し前までは秀吉たちのもとで朝食を共にすることも多かったがいまは遠慮している。秀吉が華子の部屋に朝の挨拶がてら食事を共にする回数が増えるにつれ、半兵衛の足は遠のいていった。
『総兵衛たちがいたら、秀吉殿は素直に彼女のとこに行くなんて言えないもんなぁ』
 脳内で寝転がりながら笑みを零す『弟』に同種の笑みを返す。
 秀吉が立場的に半兵衛の来訪を拒否し難い以上、察して身を引くのが部下たる者の勤めだ。
「行って来る。佐助、今日も町方の見張りを頼むぞ」
「畏まりました」
 深々とこうべを垂れて佐助が主の後ろ姿を見送る。その瞳は強い憤りと不満に彩られているようだった。




 将軍の御所に向かいながら途中途中で見知った顔と会釈をかわす。廊下の角で待ち構えていた小一郎に掴まった。
「―――兄さんとは、また、現地集合です」
 思い切りむすったれた表情で彼は言い放つ。今朝もまた秀吉は華子のもとへ顔出しに行ったのだろう。来訪の頻度は逐一茜から報告を受けているので半兵衛としては苦笑するしかない。かなり足繁く通っているらしい………熱心でいいことではないか。肝心の仕事がお座成りにならなければ、ではあるが。
 更にひとつ先の廊下で小六と利家に会った。彼らの話題も白拍子に関することのようで、すっかり城内があの女性ひとりに席巻されてしまったな、と聊か呆れないでもない。
「ま、芸術なんてわからん俺でも確かにあの舞いは見てて気持ちがいいからな」
 というのが小六の意見であり、
「お松に教えたら今度こっそり呼んでくれとか言われたぞ。………俺がイレあげてる理由が知りたいらしい。そんなに熱心だったか、俺?」
 というのが利家の惚気だか何だか分からない感想である。
 ひとりひとりの言葉に頷きを返す半兵衛の裾を、やや後方からそっと小一郎が引っ張った。
「先生―――その………何か、妙な、視線が」
「無視しなさい」
 あっさりと斬り捨てた。確かに、すれ違う武将やその部下たちから意味ありげな視線を注がれている。対象は主に半兵衛だ。探るような、値踏みするような、侮蔑するような、羨むような、様々な感情が入り混じったものだから皆が戸惑っている。彼らもくだんの『噂』は耳にしているはずだが―――。
「噂は噂、だもんなぁ、先生?」
 小六に肩を叩かれてちょっとだけ息が詰まった。微笑み返しながら、「でも周囲が噂を真実に入れ替えてるんですよね」とこっそり呟く。
 過日、華子を抱き上げて部屋まで運んだ。多少の噂は覚悟していたが、ここまでとは想像していなかった。考えていたよりも華子の影響力はすごかったようだ。尤も、小一郎に言わせれば「相手が先生なのが問題なんです」となるらしい。名もない雑兵が相手だったなら誰もが文句を垂れつつもすぐに忘れたろうに、片方が名の知れた軍師だったから噂がやたら真実味を持って吹聴されてしまったのだと。
 一理ある、と半兵衛は聊か軽率だった己の行動をほんのちょっとだけ悔いている。
 先日と同じ場所に主だった武将が軒を連ねている。その様自体はかつてと同じであれ、皆が内心に抱く関心は以前とは比較にならないほど高くなっている。正面に座した将軍は見るからにご機嫌で、普段ならそんな将軍を内心で煙たく思っているだろう諸将すら文句も言わず護衛をしている。
 並び控えた一列に秀吉を見つけた。こちらから呼びかけるより先に気付いた彼がそっと振り向いて笑みを零す。
 よかった。どうやら彼はまだ笑顔でいてくれるらしい。それだけで満足した半兵衛は微笑みながらも歩を引いた。彼の真後ろに控えて華子の舞いを見守る気にはなれない。
「先生、行かないんですか?」
「佐助から連絡が入るかもしれませんから………後ろで控えています。小一郎殿たちは秀吉殿の護衛をお願いします」
「でも」
 困った、というように小一郎は口元に手を当て、次いで救いを求めるように小六を見上げた。それとなくこちらの事情を察しているらしい小六は軽く相手の肩を叩いて先を促した。
「先生がそう言ってるんだ。俺らだけで行くぞ」
「―――ええ、まあ。そうですけど」
 間もなく白拍子が来るだろうと時刻を気にしながらも、軍師に肩入れしがちな主君の弟は不機嫌そうに顔をひん曲げた。
「なんか―――嫌ですよ、俺は。先生は遠慮なんてしなくていいのに」
「していませんよ」
「………先生がそれで納得してるなら何も言いません。俺は、嫌ですけど」
 所詮は個人的な感想ですからと言い置いて小一郎が背を向ける。らしくもなく逃げ腰な半兵衛を無意識の内に責めているのかもしれなかった。
 数少ないこころ許せる人物に詰られるのはきつかったが半兵衛自身でも制御できずにいるのだ。意志や心構えはともかく、それ以前に肉体が自然と拒否してしまうのはどうしようもないだろう? 諸将の好奇の目にさらされるのもいまは煩わしかった。
 ―――ひどく、疲れている。
 原因は、わかっている。
 けれど、避けて通る訳にも行かない。
 ため息をつきつつも出入り口に程近い最も奥まった場所へ身を沈めた。何故こんなところに陣取るのかと周囲の者が数名、訝しげな表情を向けたが、彼らの視線もまたすぐに正面へ引き戻された。
 渦中の人物が姿を現したのである。
 冬の寒空にも映え渡る薄紅色の狩衣、白い袴、黒烏帽子。右手に掲げた緋扇も艶やかに桟敷三寸、華子がまろび出る。背後には黒子として茜を付き従えていた。彼女も胸中複雑だろうにつらいことを強いている、と珍しくも半兵衛は悔やんだ。佐助も茜も基本的に半兵衛の言うことに逆らおうとしないから、尚のこと彼らの処遇の責任は己に帰すと考えている彼である。
 故に、此度の指示は確かに茜が適任ではあったが―――つらくもあるだろう、と。
 華子の傍仕えとして動かなければならないのはきつかろう、と。
 つい、茜のことを気遣わしげに見守ってしまわずにはいられない。
 そうすると自然、華子とも目線が合いやすくなり、半兵衛に気付いた彼女がまた花のように微笑むものだから居た堪れない。頼むからそんな嬉しそうな表情を浮かべないでほしい。周囲の者たちは彼女の笑みが自分にこそ向けられたのではないかと気もそぞろになっている。取り沙汰されるのが嫌だからとより一層その身を潜めたところで、可能な限り華子の視線がこちらを追ってくるから耐え難い。
『恨みでもあるのか?』
(知るか)
 愚痴りたくなってくる。殊更、「華子」に対する「半兵衛」の存在を浮き立たせるような態度は取らないでほしかった。非情だの人非人だのと罵られようと、とかく彼女から送られる感情は煩わしかった。
 好意―――ではある、と、思う。
 だが、裏に何か別の感情を明らかに潜ませていて、それが半兵衛の気を滅入らせてくれるのだ。
(龍興殿とはまた別の意味で相性が悪いらしい………)
 鳴り始めた管弦の響きを耳に寝かせ、極力、半兵衛は意識を「外」へ置くように努めた。
 彼女の舞いを見る際に、できる限り離れた場所に位置するのは前述した理由もさることながら、他の理由も存在していた。そして、どちらかと言うとその「他の理由」が現在の半兵衛の死活問題であった。だが、それを誰に言えるだろう。誰も信じはすまい―――佐助や茜は頷いてくれたとて、他の武将の目をどうやって逃れられようか。

 タン―――………

 床を踏み鳴らす足。響く管弦の音。
 無音の内に移動する足さばき。宙を翻る紅の衣。
 寒空に冴え渡る鮮やかな色と音のない空間に敷き詰められていく確かな彼女の「息吹」。

 眩暈がする。

「―――っ」
 頭痛と眩暈、朦朧としてくる意識に耐えられず思わず背中を壁へと預けた。周囲の視線が彼女ひとりに注がれているのは不幸中のさいわいだろう。
 白拍子の舞いを見る度に意識が混濁する軍師、なんて見るに耐えないことこの上ない。
『無理か―――』
 総兵衛が歯噛みしているのが分かる。そうだ、「これ」に弱いのは半兵衛だけではない。総兵衛も同様に影響を受けている。
 気付いたのはすぐだった。華子が城内に留まると決めてから数日後、将軍に命じられて彼女が舞いを舞ったのだ。その時に感じた眩暈、動悸、立ち眩み。音が脳内で反響して前後不覚の状態になる。もしやこれは妖しの術かとも思ったが他の者にはかほども影響を与えておらず、なにゆえ己ばかりが酩酊するのかと原因を探り、それと察した時は青ざめた。

 完全に―――、一致、するのだ。
 彼女と、己の。
 歩を踏む間が、息継ぎの間隔が、よくよく追ってみれば腕を振り上げ身体を捻るその振る舞いさえ。

 酷似している。
 まるで、生き別れた双子の兄妹の如く。

 己と全く同じ動きが異なる人間で再現される。それがこんなにも影響を与えるのかと自身の置かれた状況も忘れて一頻り感心した。
 間合いや息継ぎは各人によって様々であり、完全に一致する人間などこの世にひとりいるかどうか。華子の舞いを見ながら自然と半兵衛の身体は同じ時を刻んでいる。己自身が舞いを舞っているかの如く感じる。己自身が舞っているはずなのに決して「それ」は己では有り得ないから、己ではないのに同じ動きをしているから、感覚が少しずつ狂わされてゆく。
(其れ故の酩酊、か―――………)
 だが、それを周囲に語ったところでどれほどの人間が理解してくれるだろう。
 傍目にはただの腰抜けの逃げ口上。余程注意深い者でなければ半兵衛と華子の動きが揃っているなど見破れようはずもない。性別も違えば背格好も違う、それだけで他者の目は容易に欺ける。

 タン………

 また、ひとつ。
 音が重ねられて半兵衛は低く呻いた。額にじっとりと汗が滲む。彼女の舞いを見守ることは拷問に等しかった。肉体的疲労はほとんどないにしろ、これは、精神的な責め苦に近い。
 心を砕いてゆく音色。
 こころこわすね。
 視界が揺らぐ。しきりと瞬きを繰り返し、眉間を指で押さえてどうにか意識を保とうと努める。こんなところで倒れては洒落にならない………総兵衛が『表』に出て取り繕ってくれるならまだしも、この状況下では彼の助けすら期待できそうにないのだから。
 かろうじて立て直した視線の先、艶やかな衣装の裾を散らしながら踊る女と視線が交錯する。
 何かを探るような瞳、何かを試すような視線、何かを問い掛けるような眼差し。
 逃れようにも逃れられず瞳を合わせれば周囲の喧騒もやがて遠くなっていく。自分と彼女の他には誰もいない闇の中―――舞い手に与えられた舞台にのみ光が当たっている。『其処』へ己もいざなわれていることを全身で感じながらも唯々諾々と従うのは躊躇われる。されど従わねばより一層の辛苦が胸を締め付けるのだ。

 抗い難い『音』があるのだと―――。
 初めて、実感した気がした。

 酔いは日に日に酷くなる。彼女の舞いを見れば見るほど、音に近づけば近づくほど、自身の中に根付いていたものが次々と塗り替えられていく。一種、それは当然のこととも思われ、そう思ってしまう自身の本能に危機感を覚えた。
 つまり、己は、本能的に彼女を『同族』と看做している………。
 終に耐え切れず身体が傾ぐ。しかし、壁にぶつかるはずだった背を誰かの腕に支えられた。目が眩んで相手を見定めることも叶わないが、しっかと腕を回してくれる体躯は幼かりし日の兄を思い出させた。
 その人物は頼りない足取りの半兵衛をそっと座敷から連れ出す。舞いの音が遠ざかるにつれて体調が回復してきて彼はほっと安堵の息をついた。疲労から閉じようとする目を無理矢理にこじ開けてみれば久しく話していなかった知人の顔が一番に映る。
「―――十兵衛、殿………?」
 搾り出した声は情けなくなるぐらい弱々しかったと思う。
 半兵衛の背を支えて廊下に連れ出した光秀は沈痛な面持ちのまま角の影を手招きした。誘いにのった影が音もなくふたりの横に並び立つ。
「早く連れて行け。皆には俺から上手く話しておこう」
 角から現れた佐助が深く頷きを返した。半兵衛の腕を光秀から受け取る。
 ようやっと我に返った軍師は痛む頭を抑えながらもどうにか明るい頭髪をした知り合いを見上げる。やけに相手の視線が高いところにあるなぁ、と思い、そこでやっと自分が腰砕けの状態でへたり込んでいるのだと知った。無性に恥ずかしい。
「十兵………」
「あまり話すな。顔色が悪いぞ」
 微妙な苦笑いを頬に刻んだ光秀はツ、と視線を管弦の間へと向ける。
 彼の呟きは極々小さなものだったが半兵衛と佐助の耳にはしっかりと届いていた。
「白拍子殿の舞いが原因らしいとは分かるが―――この城内でお前がそれを口にするのは憚られるのだろう? 全く、少し前までは考えられなかったことだな。影響を受けずに過ごしているのは一部の人間だけのようだぞ」
 ひとりの女の動向に左右される城というのは静かで不穏な空気を湛えているものだ。
 振り向いた彼は再度、微笑んで半兵衛の背を押した。
「早く休め。話は今日の夜にでも聞こう。無論、体調が悪ければ遠慮するが………」
「いいえ」
 驚くほどしっかりと半兵衛は否定の言葉を口にした。
「いいえ、十兵衛殿。お待ちしております」
「―――わかった」
 最後に、許可を取るように光秀は佐助をちらりと見やると、そのまま舞いの間へ戻っていった。彼自身、途中退席したと思われれば城内で居辛くなるだろうに、それをおして連れ出してくれたことに半兵衛は深く感謝した。
 未だ覚束ない足取りをして、片手を佐助に引かれながら自室までの道をたどる。
 おそらく、この様は舞台上の茜からも見えていただろう。心配していなければいいが、と、霞が掛かり始めた頭で考える。華子の舞いに『あてられた』後は、考えることも動くことも拒絶することも、ひどく億劫になるのだった。
 促されるままに歩を進め、いつしか部屋の前までたどり着いたことを知る。障子を開けた手前でぼんやりと佇む半兵衛を他所に佐助はてきぱきと動いている。布団を敷き、枕を用意し、よもやに備えて水の張った桶と手拭まで用意されてからやっと部屋の主は自分が何もしていないことに気がついた。部下が無言を貫いているからこちらも黙っていたが、これまでの経験から言うと彼は―――。
 かなり、怒っているだろう。
 高確率で。
「―――佐助」
「半兵衛様。床の準備が出来ましたのでどうぞお休みください」
 素っ気無い言葉のみが返される。未だ出入り口で立ち止まったまま半兵衛は再び痛み出した頭に手をやる。
「今回は………十兵衛殿に、助けられた、な」
 言うべき言葉はそれではないと知っているのに頭が回転しない。思い浮かんだ事柄ばかりが口をつくいまの自分は、きっと誰よりも『軍師』に相応しくない。
「礼をしなければ………」
「そんなことより!」
 佐助が声を荒げた。枕元に座り込んだ体勢でこちらを見上げてくる視線が痛いぐらいなのに、突き刺さるような目つきに半兵衛は虚ろな眼差しを返すばかりだった。あまりにも鈍いその反応が尚更相手の苛立ちを深めることを知りながら。
 責めるような口調になってしまった自身に対して部下は舌打ちをした。
「礼などより、貴方様が元気になられることが第一です。光秀様はそういう方でいらっしゃる」
「公務も………欠席して、しまった、な」
「こう申し上げては何ですがいまの貴方はご自身のことを理解していらっしゃらない。公務が何です。立場が何です。体調が悪いのならば休んで恥じることなどありませぬ。そも、武士とは身体が資本なのではございませぬか」
 今日はよく喋るんだな………珍しく。
 また少し違うところに思考が飛んで、血の気の失せた顔のまま半兵衛は笑った。いつまでも床に近づかない主人に業を煮やしたのか佐助は腰を上げると、ここ数日でますますやせ細った腕を捕らえて強引に室内に招きいれた。手早く袴と内掛けを取っ払い、布団の中に主を押し込む。その手際のよさと言ったら、むかしは追い剥ぎに精でも出してたんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
 詰め込まれた布団と額に感じる部下の手のあたたかさに身体が冷え切っていたことを思い知る。顔の半分を布団に埋めて彼を見上げれば心配ないというように微笑まれた。
「眠ってください、半兵衛様。貴方様のためでなく―――私と、茜のために」
 嗚呼、全く、本当に。
 彼らは主に甘すぎる。体調管理も出来ない上役など見捨ててかつての職場に戻ったならば、もっと楽な生き方が出来るだろうに。儚い笑みを半兵衛は口元に刻み込む。
「ずるいぞ、佐助」
「貴方ほどではございませぬ」
「………傍に」
 ゆっくりと右手を布団の中から持ち上げて、指先を側に座した部下のてのひらへと絡める。
「傍に―――いてくれ。少しの間でいいから………」
「御意」
 まぶたを閉ざせば世界は薄暗い闇に包まれる。しかし、何も見えなくなったその世界でも不思議と眼前の部下の表情だけははっきりと分かるのだ。
「目覚めるまで―――此処におりますゆえ」
 おだやかな笑みでしっかと告げる佐助の表情が深い安寧を彼に齎した。
 こうして彼が傍にいてくれるなら、今宵の夢は不吉に捉えられたりしない………。
 そう確信して半兵衛が意識を完全に闇へと埋没させる。主君の眠りを守護すべく、部下はじっと己が手に握られた白い繊手を凝視する。
 いつまでも、共に、と固く誓いながら。




 暗闇に辺りは静まり返り、庭に設置された篝火が夜風に揺れている。聞こえてくるのは犬の遠吠えと見回りの足音、深々と降り積もる雪の音。歩くたびに廊下の軋みさえ大きく響くから秀吉は細心の注意を払わなければならなかった。向かう先は行きなれた軍師の寝所とて常に「企みがあるか」と諸将に見張られる立場である。油断する訳にはいかない。
 吐く息も白く、かじかむてのひらに息を吹きかけて暖を取る。
(そういや、こうして奴の処へ赴くのも久しぶりか―――)
 この朝に。
 管弦の間の奥に控えているのを確認したが、華子が引き下がった後に見てみれば姿は消えていた。どうかしたのかと思いつつ雑務を片付け、華子のもとへ用聞きに伺い、武器の手入れをしている処へ不機嫌そうに小一郎がやって来た。曰く、半兵衛は体調を崩して自室に戻っているのだと。既に彼と小六は見舞いを済ませてきたらしい。
「兄さんも行かなくていいの? それに、先生のこと助けてくれた光秀様に後で礼をしとかないと」
「光秀が? 何で?」
「先生の一番近くにいたからでしょ。ちゃんと兄さんからもお礼ゆっといてよ? ほんと、最近は他のことに無関心なんだから………」
 弟の文句も耳に入らず、秀吉は光秀の好意には裏があるのではないかと考えていた。冷徹なようでいて半兵衛は意外と情に脆い。軍師を誑かせば木下組の情報を入手できると光秀が考えたとしてもおかしくないだろう。尤も、傍から見た限りでは懐柔しているのは半兵衛の側に思えるのだが。
 結局、彼が腰を上げたのは夜半も過ぎた時間帯であった。見舞うには相応しくない時間帯を選んだのは他にも問い質したい噂があったからである。正面きって問い質すのは「何を気にしているのか」と妙な意地が先に立ち、されど聞き流すことも叶いそうにはない。
 つまり、華子と半兵衛が恋仲にある―――と言う、噂を。
 半兵衛がどれだけ妻を大切にしているか知っている者にしてみれば下らないことこの上ない。その一方で、火のないところに煙は立たないと考えてしまう己もいる。確かに、華子が自身へ向ける眼差しと、半兵衛に向ける眼差しには温度差があるように思えてならなかったのだ。半兵衛を見る時は安堵と信頼に満ちている瞳が秀吉に向けた途端に控えめで臆したものへと変わってしまう。怯えられるのは秀吉の本分ではなかった。
 ―――いずれにしろ、確認しておく必要があるか………。
 そう考えて、いま、こうして夜更けの道を辿っている。
 頭上から皓々と降り注ぐ白光に気付いて足を止めた。夕刻より振り出した雪はしばしその勢いを弱め、代わりに月が顔を覗かせたようだ。白一色に染め上げられた庭はまるで昼間のように明るい。
(………?)
 先へ進もうとした彼は同じ道を先行する影に眉を顰めた。廊下の行き止まりには半兵衛の部屋しかなく、従ってここは専用通路に等しかった。ならば影が目的とする場所も己と同じでしか有り得ず、果たして何奴かと思えば自然と腰の刀に手が伸びた。
 極力音を立てないように近づき、相手に悟られるより先に正体を知って秀吉は目を見開いた。

 ―――光秀、だ。
 噂をすれば何とやら………ということか。

 もし彼が何の先触れもなしに訪れたならば佐助の迎撃を受けてもいい頃だ。けれど光秀が夜間の訪れを付き人に咎められることはなく、それどころか障子は内から開かれ、彼を招いて閉じる気配もない。やがて点されたほのかな光が中の人間の所在を教える。
(―――どういうことだ)
 胸がざわめく。これではまるで密会だ。半兵衛は素知らぬ顔で、光秀とこうして何度も会っていたのだろうか―――秀吉に知らせることなく。こんな、背信に近い行いを。
 キリキリと心の臓が痛む。だが、気付かぬふりで秀吉はこっそりと部屋に近寄った。室内から漏れてくる光と共に中の声が響いてくる。開かれたままの障子の向こう側に光秀の姿が垣間見えていた。彼の正面に半兵衛は座しているのだろうが、この角度からでは確かめることが出来なかった。
 これ以上近寄れば気配を察知されるだろうリギリまで身を寄せてから、秀吉は息を殺すと神経を集中した。しぶとく、根気よく、聞こえてくる音に耳を澄ます。低く、細く、届く声音はひどく穏やかなものだった。
「―――に………今日は、ありがとうございました」
「なに。礼を言われる程のことではない」
 慣れ親しんだ者の間にだけ感じられる親愛の情が言葉の端々から透けている。室内の火がふたりの影を障子へと投影していた。気遣わしげな光秀の声がする。
「顔色が悪いな、大丈夫なのか?」
「気になさらずとも。暗がりでそう見えているだけでございましょう」
 おそらくいま、軍師は笑っている。自らの体調に言及された時は大抵こうして言い逃れるのが常であった。だが、そこで引かない辺り光秀も対処を心得ている。
「嘘を申すな。―――ほらみろ、熱があるのではないか?」
 影の動きから光秀が相手の額に手をやったのが窺い知れる。戸惑い気味にすぐその腕はもとの位置に戻されたけれど。
「………今宵は去るか」
「何を仰います。それではいつまで経っても話が伺えませぬ」
「しかし」
「貴方様が気遣う必要などございませぬ。どうせ最近は、いつもこれぐらいですから」
「―――冬だから、か」
「この身体ばかりは………如何ともし難く」
 壁に寄り掛かった体勢で、そういえばこいつの言葉をこんなにたくさん聞くのは随分久しぶりな気がする、と秀吉は考えた。上司と部下の関係は密にしておくに越したことはないのに、最近は顔を合わす機会すら稀になっていたようだ。小一郎が苛立つのも無理からぬことかもしれない。
「己が身体をいとおしめ。お主自身がそれでは佐助殿や茜殿ばかりが苦労する」
「されど十兵衛殿、幼少の砌より私は自身と付き合うて長いのですよ。無理の利く、利かないは承知の上」
「その上で無理をするか。故にこそ周囲の気苦労が絶えぬ」
「貴方様と話していると………兄が、其処にいるかのようですな」
 微かな笑い声が響いた。
 障子のこちら側からでは聊か虚を突かれたような光秀の表情しか覗けない。
「………奴は」
「深刻な顔をしてくださるな、十兵衛殿。兄が故人であることぐらい疾うに理解しております」
「―――故人にこころを残すなと教えられなんだか」
「言われずとも」
 告げる割りに半兵衛の言葉はどこか芯が欠けている。軽いのとは違うが、妙に、心此処に在らずといった印象を受ける。目覚めているはずなのに意識の半分が夢に踏み込んでいるかのようだ。
「それでも時に………夢を、見ないでも、なく」
「重行のか」
「兄に限らず―――さりとて他の誰かを思うでもなく」
 ならば誰を、との光秀の問い掛けを、きっと彼はひっそりと口元に刻んだ笑みではぐらかしている。
 僅かな吐息が零れたのちにぽつり、ぽつりと言葉が続く。
「月の白い夜に―――夢を見ます。このまま旅に出たならば、全てを忘れられたなら、いずれ何処かで野垂れ死ぬとて然程に幸福な亡き様があろうかと」
「何を申す」
「飲まず食わずの日和見が長続きせぬとは存じております。されど道端で、川べりで、誰にも看取られずに意識を剥離したならば元より武士として役立たずのこの腕、この身すら、腐り、風化し、獣に食われ骨と化し―――やがては大地に帰し何者かの肥やしにはなるのであろうと」
「………」
「思うことは―――救いとなること常に、限りなく。我がこころは何処にも帰らずともこの身は他の差別なく土に帰すのであれば、これほどに嬉しきことはない」
「しかし」
「………時折り、全てを投げ捨てたくなることも、あるのですよ?」
 珍しく小さな声を上げて半兵衛は笑った。
 こちらは笑うどころではない。まさか半兵衛と―――総兵衛が。常に前向きでおだやかな陽だまりのように微笑んでいる彼らが、そんな虚ろな魂を抱えているなど思いもしなかった。
(―――何故)
 悔しさから歯噛みする。
(何故―――それを、俺に言わない?)
 部外者であるはずの光秀には話すのに。
 心配させぬよう敢えて伏せていたのだろうか。と、同時に、佐助や茜には疾うに話してあるのだろうという妙な確信がある。その立ち居振る舞いや所持品の少なさや生き方から彼らの主義主張は覗けたとしても直接に語られた訳ではない。
 自分だけがいつも勝手に彼らの世界から隔絶されている。
 しばしの沈黙の後に光秀の低い声音が響いてきた。
「―――怖い、のか」
 問いかけではなく、確かめるような口調だった。
 すぐの返事はなく、またしばらくの沈黙を挟んだ後に静かな半兵衛の声が聞こえた。
「………そう、かもしれませぬ」
 滅多に聞くことのない半兵衛の弱音だ。
「私は―――負けるかもしれない」
「負ける?」
「刀を持ち斬り合うだけが、権謀術数をもって相手を陥れるのみが戦いではございますまい」
 微苦笑と共に語られる言葉。ともし火が揺らいだ。
「信長公にしろ、秀吉殿にしろ、実力も武力もございますがそれ以上に恐れるべきはあの方たちの持つ影響力でしょう」
「影響、か」
「否応なしに関わった者を巻き込んでいく―――己が運命に他者の運命まで取り込んで大いなる波濤の如く時代へ打ち寄せる。一度出会うたならば、関わりを持ったならば、以後の生において無視することも叶わず」
「確かに、な。もし公自身に武芸の才がなくとも、やがては台頭してくるであろうことは明らかだ」
 無論、信長は自身の実力を第一として名を成したのだが、それだけが全てではなかろうということだ。
「私など―――ただただ波に飲まれ、翻弄され、やがては消えゆく小さな漣に過ぎず………。多大なる影響力を持つ人間の前では個人の意志など何ほどのものでもございませぬ」
「―――半兵衛」
 少しの躊躇いを乗せて光秀の声が響いた。

「お主が申しておるのは白拍子殿のことか」

 応えは、沈黙。
 だがその沈黙が何よりも光秀の言葉が正しいのだと証明していた。
「確かに………彼女が来てから何かが変わった印象を受ける。さりとて、それが即座に負けに繋がるとまでは思えぬ。何を恐れる」
「―――何を」
「むしろ白拍子殿は、どう言おうか、お主の前でだけ緊張を解いているように俺には思える。それはお主に頼っていることの証にはならぬのか?」
「………華子殿は」
 僅かに半兵衛はため息をついたようだった。障子に移ろう影から話し手の疲労までが伝わってくる。
「華子殿が私の前でのみ緊張を解いているように見えるのは―――私が彼女に勝つことはないと、知っているからです」
「なに?」
 光秀と同じく秀吉は眉を顰めた。
 半兵衛の主張は理が通っているようで通っていない。幾ら半兵衛が華奢で腺病質とはいえ、小柄な女性に負けるとは流石にどんな人間でも思わないだろう。
「私は彼女に勝つことは出来ない。少なくとも、いまの私には」
「よく………分からぬのだが」
「他者を巻き込む点に関しては彼女も変わらず………知らず、人を惹き付ける。知らず、人の定めを変える。自身が望むと望まないとに関わらず―――私は、それに抗えない。抗えるだけの気力も、体力も、実力もない………」
「飲まれるのか―――そなたが」
「このままで行けば、いずれは。いまでさえこの酩酊、この迷走、この体たらく。あと数回でも今日のようなことがあれば………」
 もう、僅かも持ちますまい、と。
 抑揚もなく半兵衛は呟いた。
 きつい静謐。ただ、聞こえるのは油を燃す灯明のジリジリという音と、いつの間にかまた降りだしていた雪が木々の葉に色を連ねていく重さだけ。
 何かを振り切るようなため息をつき、殊更に明るい声音で口火を切ったのは光秀だった。
「そうは言ってもな―――今更お主が華子殿を避けたとて周囲の噂を肯定するだけだぞ」
「噂?」
「そうだ。全く、取り沙汰されるのが嫌ならばあのような振る舞いなどしなければ良かったのだ。あるいはあれもお主が白拍子殿に『勝てない』理由か?」
 何を言いたいのか察したらしい半兵衛の口調も少し軽やかなものへと変わる。
「あの時はああしなければ………あれ以上人目を集めるのも避けたかったですし?」
「だからと言って抱きかかえずともよかったものを。まるで『伊勢』を見ているかのようだったぞ」
「それでは駆け落ちになってしまう」
 ようやく、ふたりが声を揃えて笑った。
(ああ、そういえば)
 と、秀吉も思い出す。此処に来た理由は例の噂を確かめるためでもあったのだと。奇しくも光秀が話題にしてくれた訳だが、脇から聞く限りでは噂は真実であり、同時に、真実ではないようだ。半兵衛は彼女を毛嫌いしているようであるし。
 意味もなく彼女を嫌うのは半兵衛とて許せないが、しかし、彼が彼女に好意を抱いていなくて安堵した。どうしてそう感じるのか突き詰めて考えようと、いまの秀吉は思わなかったけれど。一頻り笑いあう彼らに以前ならもっと腹が立っていただろうに、何故かいまはそれほどに苛立つこともない。その理由も考えようとは思わなかった。
 ひたり、と笑いを止めて。
 光秀の声音がこれまで以上に優しく響く。
「半兵衛」
「………はい」

「さみしいのか?」

 深々と雪が降り積もる。
 かなりの時間を置いてから、答えが途切れがちに返される。
「そう………なん、ですか、ね」
「問い返してどうする」
「わからない………です………いまはとても、そこまでは―――」
 ひどく単純なこととは存じております。けれどいまは、自分の感覚すらひどく遠いのです。
 そう語る彼はやはりどこか夢心地でいるのだろう。見えない位置から伸びてきた白い手が、光秀の手を取るのがかろうじて判別できた。ぽつぽつと続く言葉は傍らで舞い散る雪よりも尚、儚かった。
「ですが、いまは―――十兵衛殿の手のあたたかさを、嬉しく………思います」
「うむ」
「幼い頃………私が熱を出した夜などに、兄が、こうして」
「うむ」
「こうして―――手を―――握って、くれていた………それだけで」
「半兵衛」
「それだけのことで―――救われたのを………ふふ、おかしいですね。もう成人して幾年も経つというのに、まるで頑是無い子供だ………私は、どうして」
「分かっている。分かっている、大丈夫だ―――」
 たどたどしい言葉と光秀の頷きばかりが繰り言のように響いてくる。
 開いた障子の隙間から見える光秀の気遣わしげな様子も、耳に届く親しみを込めた互いの声も、何故だかひどく秀吉の気分を凍てつかせた。静止していた身体を解放し立ち上がろうとすれば予想外に固くなっていて、吐く息の白さと青褪めたてのひらに、己がどれだけ長く聞き入っていたのかを知る。
 いまとなっては無言で聞き入っていた自身が妙に腹立たしく、極力、音を立てないよう努めながら、もと来た道を引き返し始めた。背後から未だふたりの静かな会話が聞こえてくる。こころある者が聞いたならば感じ入られずにはいられない、深く共感せずにはいられない、そんな声音。
 なのにその遣り取りは秀吉の胸に突き刺さる。
 あたたかさとか、微笑ましさとか、そういったぬるま湯のような感情とは全く違う方向で。

(―――必要ではない。俺は。俺には。あいつは)

 こころの中で呟いた言葉は以前なら確実に己自身を貫いていただろうもの。
 けれどいまはかつてほどの衝撃を受けるでもなく、ただひたすらに苦しく、腹立たしく、一方で下らぬことだと斬り捨てる己がいて。
 内面の感情に突き動かされるようにしてその場を離れた。

 終に、半兵衛を見舞うことなく。
 再び、すれ違いの日常に戻っていく。

 次に言葉を交わすのがどういった場面になるのかも知らぬままに。

 

<壱> ←    → <参>

 


 

※1:こころこわすね = 心、壊す、音

※2:伊勢 = 伊勢物語

 

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