雪は降り続く。
 深々と降り積もる様に目を閉じれば、あまりの静けさに意識が飲まれて行くかのようだ。
 手にした茶器から感じる僅かなぬくもりを頼りに瞑想に耽ろうとしたが、しかし、同席する者がそれを許しはしなかった。
「はー、飽きもせずよく降るのー」
「伽藍………少しはおとなしくしている気にはならんのか?」
「何を言う、こんな時こそ音曲の腕の見せどころではないか」
 確かにお前の腕は一級品だがな、と宗易は苦笑して見せた。
 いつも京の都を自由に闊歩しているこの友人は、冬場でも歩き回っていて会合に参加しないことがほとんどだ。時折りふらりと訪れては一曲奏で、自身が満足したら早々に立ち去ってしまうのだ―――宗易のところから幾らかの酒をちょろまかして。
 だから、常ならば雪が降ろうが霙が降ろうが槍が降ろうが適当に練り歩いている彼が、ここ数日、屋敷に留まったままでいるのが少々意外でもあったのだが。
 何か、期することでもあったのだろうか?
 縁側で色濃い常緑樹の葉に降り積もる白を並んで眺めながら、友は琵琶を爪弾いている。耳に届く音色はなるほど、確かに、風流とは言えるだろう。
 響き渡る音色にまぶたを閉じようとした刹那、低く友人が笑うのが分かった。
 何事か、と座り込んだ相手に視線を流せば応えて曰く。

「―――客人のご到着だぞ」

 そこでようやく彼は玄関付近で揺れるくすんだ色の傘を見つけたのだった。

 


<参> 巫子となり、巫子たらず


 

 出迎えた宗易は驚いた。見知らぬ人間の来訪だったからではない。何に驚いたって―――
「お久しぶりです、宗易殿」
 このところ親しくしている軍師殿の顔がやわらかい微笑では隠しようがないぐらい青褪めていることとか、日頃なら自分で持っている傘を何故か傍らの部下にさしかけてもらっていることとか、まあ、色々である。
 仏頂面で佇む横の男は銀世界では目立ちすぎる黒衣に身を包み、黙して傘を畳んだ。もとから色素の薄い半兵衛は寒さに押されてか吹けば飛ぶような風情である。
 一瞬、黙した気を取り直して宗易は彼等に上がるよう勧めた。
「これはこれは………このように雪降る中お越し頂くとは如何いたしましたかな。思わぬご来訪ゆえどうやって持て成したものやら」
「いえ、お構いなく」
 座敷に通して座布団を使うよう手で示す。何故か殊更に彼を丁重に扱わなければいけない―――そんな気がひしひしとした。それは何も彼の部下たる佐助の無言の圧力だけではなく、宗易自身にも半兵衛が危ういところにいると感じられたからだ。
 ひどく、存在が希薄で。
 ひどく、儚い佇まいをしている。
 下手したらこのまま溶けて消えてしまってもおかしくはない、そんな印象を抱かせる。
 火鉢の傍らにそっと手を添え瞳を閉じて、しばし、無言の時が流れた。そんなちょっとした緊張と穏やかさをはらんだ時間を打ち破ったのは伽藍の深いため息である。
「全く、情けない」
 そう言って彼はやれやれと首を横に振ったのだ。視線は違うことなく半兵衛に注がれており、注がれた側もゆっくりと微笑み返すから、どうやら当事者間だけでは共通の認識がなされているようである。
 お前が詳細を察せずとも無理はあるまいよ、と伽藍は呟いた。
「宗易よ、お主も聞いてはおらなんだか? 最近の将軍や、都に配備された者どもの不甲斐なさを」
「ああ」
 それならば宗易の耳にも届いている。
 何でも、城に身元不明の白拍子が舞い込んで以来、兵士どもの働きはほぼ機能停止しているという。現れたは傾国の美女かと知識人の間では専らの噂だ。未だ生で対面した者がいないため仲間内でもそれほど話題にならなかったのだが………。
「わしはな、直接に見に行ったぞ」
「ほう、いつのことだ」
「つい先日のことだ。まぁ白鷺が舞い降りただの天女が降りてきただの散々騒ぎよるから、城から楽の音が聴こえた時にちょいと、な」
 つまりそれは、垣間見というヤツではないのか。
 いや、それ以前に、こんな老人に垣間見を許すとは城の警護は一体どうなっているのだろう。
「傾国だの傾城だのと騒がれるも分かる美貌ではあったな。確かに見事な舞い、見事な音―――が、お主とは合わなかろう」
 彼は火鉢の傍らに座り込んだ相手に視線を投げる。受け取った者は非常に淡い微笑を口元に刻んだまま何を語る訳でもなかった。
「どうする、半兵衛。あのまま城を席巻されていて良いのか」
「………争うつもりはないのです」
 控えめに彼は否定した。その声音さえいつもよりも弱々しい。
「城の行く末や国の在り様より主の意向を優先すべきかと」
「ただの逃げじゃのう。お主がしっかりせずに如何様に振舞うと言うのだ。らしくもない」
 きっぱりはっきりと否定して、伽藍は手元に琵琶を手繰り寄せた。
 軽く、爪はじく。
 鳴らされた音色に薄く半兵衛が瞳を閉じる。
「―――何故、かように体調を著しく損なっているのか、分かるか」
 凡そのところは、と青年が頷きを返す。
「かの女の奏でる音はお主の内にある音と反発しあうのだ。根底は同じでありながら顕れ方が異なるために干渉し合い、そして、お主の実力が未だ及ばぬが故に押されるのだ」
「慧眼、恐れ入ります」
「ならばついでに告げてやろう。早く自身の中の音を、鼓動を、取り戻すがよい。戻せねばこのまま朽ち果てるとも、戻せばお主に敵う者などおらぬのだからな」
 そして。
 一頻り、伽藍が琵琶を弾き語る。
 深々と降り積もる雪の音に混じり染み渡る余韻嫋々。
 半兵衛が、瞳を閉じる。それに倣い、佐助も、また。
 真白い庭を見守りながら宗易が人数分の茶を注ぐ。場が音に満たされているのに感じるのは澄み切った静寂だ。おそらくそれは、伽藍が、あまりにも自然に空気に溶け込むような旋律を生み出しているからだろう。『天韻』とも称される音曲は決して日常の音色を脅かすものではない。だが、ひとたび発せられたならば誰もが耳を傾けずにはいられない。
 人数分の湯飲みが手元に配られ、雪が更にその厚みを増した頃に少しだけ音は途絶えた。
 宗易が振り向いた先、何処かぼんやりとした様子の半兵衛を伽藍が厳しい眼差しで見つめている。半兵衛はこころ此処に在らずといった感じではあるが、それでもまだ、此処に訪れた時よりは聊か顔色も良くなっているように見える。
「―――斃れるでないぞ」
 まるで自らの子か孫にでも言い聞かすかのような口調で。
 切々と訴えるように、低く、確とした言葉を相手に託す。
「未だ儂はお主と語り足りておらぬわ」
「………伽藍殿」
「自らの内の響きが途絶えそうになったならば音曲を以って守護するがいい。いずれは相手も仕掛けてこようが殊更に早く打ち倒される必要もあるまいよ」
 ビィン、と、またひとつの和音を室内に響き渡らせながら。
 もしも間に合いそうにない時は、仕方ないからな、と歳経た友人は笑う。
「儂を呼ぶがいい。権力や武力を司る連中は好まぬが徒然に参加するぐらいならば暇つぶしにもなろう」
 ぼうっとしていた面を上げて、少しだけ頬に血色の戻った半兵衛は僅かばかり首を傾げてみせた。遅れて眼前の知人の言葉の意味を解し、嗚呼、と頷いた。
「―――有り難く存じます」
 微笑みは未だに薄い色彩を添えて。
 庭の木々の枝から、雪が重たい音を立てて地に落ちた。




 爪弾く音色はしじまに響き渡る。どんよりとした薄曇の空から降り行く細かな風花。
 陰々と木霊する手元の琵琶より奏でられる音に耳を澄ませ、深く、呼吸をする。吐き出した呼吸と体内の拍動が同じ間隔で動いているのを感じ、なるほど、確かに音は自身の中にも存在するのだと改めて認識をした。
『実際、楽を奏でるようになってから幾らか調子はよくなりつつあるしな』
(―――ああ、そうだな)
 半兵衛は内心の相棒の呟きに答える。
 宗易のもとで伽藍より指導を受けてから数日。寒さが厳しさを増してきたのを良いことに、半兵衛は公務を欠席することが多くなっていた。
 毎朝のように開かれている華子の舞いの儀式にも参列していない。代わりに、奥まった自室で密やかに楽の音を奏でる。すると不思議なことに、意識の酩酊や、冷えきった身体に幾許かの力が戻ってくるのだった。
 ここ数日は小一郎や小六、光秀らと会うことすら控えて静養に努めている。秀吉に至ってはいつぞやの朝会で見かけて以来、それっきりである。小一郎はそれを随分と嘆いていたが、これほどに弱った様を見られるくらいならいっそ忘れ去られていた方がマシかもしれないと考えている。
 伽藍老は自身の中の鼓動を取り戻せと言った。
 まさにそれが体内で脈打つ心の臓の動きを意味するのであれば。
(生命活動を維持するのに自らの音を必要とする―――彼女の音と共鳴し、しかし反発し、故に打ちのめされる………)
 いまの己では抗しきれない。
 だが、どうすれば勝てるのだろう?
 これといった対策がある訳でもない。奥に篭もり弾き語りをしている分には安定を保てるが、いつまでも閉じこもってはいられまい。相手もこのまま見逃してはくれないだろう………何故かは知らねど彼女はこちらと相対したいと願っているようだから。
(さて―――どう仕掛けてくるかな)
 ピン、と、張り詰めた糸を指先で弾いた。
 ゆったりと縁側で冬の空を眺めながら壁にもたれている彼の耳に、誰かの足音が捉えられた。音はこちらに向かっている。果たして誰が来たのかと思うより間もなく、音はいまひとつの声に遮られた。
「何か御用でしょうか?」
 佐助の冷え切った声が聞こえる。
 それは丁度、廊下の角の辺りで、あと一度右手に折れれば琵琶を爪はじく半兵衛が目に入るだろう位置であった。
 黒衣の青年に行く手を阻まれて来訪者が戸惑っている気配が伝わる。
「は、―――いえ、ああ、その、竹中殿は」
「主人はいま臥せっております。ご用件なら私が伺います。どうか、お引取りを」
「し、しかし、こちらも火急の用事でございますゆえ」
 覚えのない声だ。上部から伝言を託された使者に過ぎないのだろう。
(………いよいよ、かもな)
 口端に少しばかりの笑みを乗せて半兵衛は重い腰を上げた。手にした琵琶はそのままに左手の角を折れる。
「佐助」
 呼びかければ黒衣の部下が物凄く不機嫌そうに振り向いた。表情は能面のように変化がないのだが、慣れた者には分かる。彼は、いま、この上もなく不機嫌だ。
「よいのだ。話を伺おう」
「………」
 不機嫌そのものの態度で佐助は道を空けた。彼の身体で遮られていた向こう側の使者と視線が噛み合う。未だ年若く見える使者はやや呆然と半兵衛のことを見つめていたが、我に返ると、慌ててその場に跪いた。
「お、御身体の具合も考えず不意の来訪を………!」
「気になさることはございません。それより、如何なさいましたかな。何方よりの命でこちらに参られた」
「は、はいっ。将軍様と秀吉公より、至急、本殿にお越しになるようにとのお達しにございます!」
 ―――来たか。
 畏まる必要はないと使者の肩に手をかけながら僅かばかり半兵衛は視線を鋭くした。
 思った通り、華子は将軍と秀吉と言う半兵衛が逆らうことの出来ないふたりに働きかけをしたようだ。もとより、体調が思わしくないだの何だのと、長期に渡って言い逃れられるはずもない。最初から切り札は彼女の手の内にあり、こちらは逃げ場も対抗する術も持たぬままに時間を引き延ばしていただけなのだから。
 そうですか、と呟き。瞳を閉じて。
 次に目を開いた時には覚悟を決めていた。
「分かりました。追って本殿に参りましょう。その旨を将軍様と秀吉公へお伝え願えますか」
「は、はい、ですが」
 面を上げた使者はそこで言いよどむ。単なる伝令役であるはずの人間が意見を述べるのは珍しいことだった。
「無理をなさらずとも―――竹中殿は臥せっていて起きることも儘ならなかったと報告すれば」
「お気遣いは無用。それに、それでは何かあった時に貴方にまで迷惑が及ぶ」
 ありがとう、と告げれば、何故か使者の方がつらそうに頬を歪めた。
 深く一礼をして立ち去る彼の姿をしばし見送って苦笑混じりのため息を零した。
「まるで幽霊でも見たような顔をされてしまったな。そんなにも影が薄いのか」
「影が薄いと言うよりは」
 後ろでじっと佇んで静観していた部下がぶっきら棒に付け足す。
「いまにも消えそうな淡雪の如く、と申すべきでしょうな。慣れぬ者にはひどく儚く感ぜられるかと」
「何処ぞの姫君でもあるまいに」
「姫君ではなくとも病人で在らせられる」
 確かに病持ちではあるなと半兵衛は笑った。
 ゆっくりと膝をついていた体勢から立ち上がると琵琶を壁に立て掛けた。部下の前をゆらゆらと通過して室内に戻る。そういえば、自分は体調不良にも関わらず薄い内掛け一枚しか羽織っていなかった。白い衣を纏った顔色のない人間が雪を背景に現れれば、やはり幽霊のように思えただろうな、と先ほどの使者に少しだけ詫びたくなった。
 袴をつけ、内掛けの上から裃をつける主の姿を部下は手伝うでもなく見つめている。
 髪を束ね、扇と刀を腰元に差し挟んで振り向いたところで、廊下の真ん中に突っ立ったままの部下と目が合った。先ほど使者の行く手を塞いだのと同じような距離間隔で仁王立ちしている。
 彼の考えも理解できるから強くは出られない。だが、いつまでも立ち止まっている訳にも行かない。
 自分は、行くと告げてしまったのだから。
「佐助。退いてくれ」
「お断りします、と、告げたなら何とします」
 半兵衛は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「別にどうもしはしない。だが、それでも、私は行くよ」
「………」
 しばし見つめあい、ため息をついて道を空けたのはやはり部下の側だった。最後の最後で結局彼はこうして半兵衛たちの意志を優先してしまう。その二律背反が彼自身を苛ませているのかと思えば聊か気が引けぬでもない。
 吐息のように佐助は零した。
「叶うことなら―――いますぐ此処から立ち去りたいくらいです」
「そうか」
「貴方を連れて」
 菩提山の庵にて静かに暮らしていた頃を懐かしく思いはしないのか。
 何か生活に不足があろうとも自分や茜が苦労はさせないよう努めるから、と。
 ぽつぽつと零された内容に少しばかりこころ惹かれるのを感じながら、だが、と半兵衛は振り向きもせずに告げた。
「だが、私は、此処にいる」
 たとえ、こころ捧げた主に相手にされなくとも。
 役に立てるかどうか分からずとも。
 いつか直接に「不要だ」と宣言されるまでは―――未練たらしく、ずるずると。




 遠ざかる足音に、佐助は忍びにあるまじき感情を浮かべた。
 どうして彼はああなのだろう、どうして見捨てないのだろう、此処に留まり続けることが彼のしあわせだとはどうしても思えず、むしろ、生命の危機ばかり感じられるぐらいなのに。
 一見の使者にさえ見抜かれるほどやせ衰えてまで留まり続ける価値があると言うのだろうか。
 叶うなら、出来るなら、この場から連れ出したかった。どれほど主に恨まれたとて、怒鳴られたとて、真実彼を憂うのならばそれが一番だと気付いている。
 だが、それでも留まり続ける理由は偏に。
 彼が最も「彼」らしく振舞えるのは戦いの場をおいて他にないのだから、と、部下は唇をかみ締めた。




 本殿へ向かうのも随分久しぶりのことだ。華子の舞いを見て体調を崩し、光秀に連れ出してもらって以降、立ち寄った記憶はない。その後は体調の悪化を理由に引き下がっていたから巷では色々とよからぬ噂も流れたらしい。
『でも―――まあ』
 行きかう人々と軽く会釈を交わしながら総兵衛が呟いた。
『少なくとも、病気で臥せってたってのは信じてもらえたみたいだな』
 視線を交わす者、言葉を交わす者、全てがまずはこちらの青白さに驚いて気遣ってくる。半兵衛にあまり自覚はないのだが、傍からはいまにも倒れそうな風情に見えるらしい。病の原因が体質だろうと恋煩いだろうと、とりあえず、臥せっていたという点だけは信用に足ると認めてもらえて嬉しいのか嬉しくないのか微妙な心境だ。
 将軍のいる奥の間に到着を伝え、襖の前でひれ伏した。
「竹中半兵衛重治、参りましてございます」
「入るがよい」
 すぐに返された答えを頼りに傍らの近習が襖を開く。面を伏せたまま中に入れば後ろで開いたばかりの戸が閉まる音が響いた。
 数歩、近づいたきり、動こうともしない彼に遠方より声が届く。
「半兵衛、何をしておる。早うこちらへ参るがよいぞ」
「―――恐れ入ります」
「それにそのように格式ばるな。お主の顔を、もそりと、近くで見たい」
 では、と前置きし、少しばかり前進すると再び将軍の手前で座り直した。
 素早く視線を巡らせれば、将軍の右手には秀吉が、左手には華子が控えている。他のお目付け役どもが見えない点からして本当に内々の集まりのつもりで召集したことが窺える。視線が交錯すると華子は心配そうな瞳をした後に微笑み、秀吉は何処か動揺した気配を見せてすぐにそっぽを向いた。正面の将軍は痛ましげに表情を曇らせる。
「半兵衛よ、ここしばらく臥せっていたと聞いたが、噂は本当だったようじゃの。無理をして参ってもろうたが身体は大丈夫なのか」
「お気遣いは無用にございます。私も武士の端くれ。お召しとあらば這ってでも参りますゆえに」
「ほ。嬉しいことを申してくれる」
 カラカラと将軍は笑って扇で自らの膝を叩いた。
 ―――悪い人物ではないのだ。
 ただ、風流好きで、新しもの好きで、芸術やら風雅やらに興味を持っているだけで。
 織田のような野武士あがりの多い団体においては煙たがられる性癖も、例えば、貴族間に入ったならば決して忌避されるものではない。この方の場合は只管にいる場所と時間と立場が問題なのだな、との考えは内心に留め置いた。
 登城して困るのは傍らに座した華子の存在だ。最早それだけで鼓動が乱れているのが分かる。血の気が引き、背を嫌な汗が伝い、眩暈がしてくる。確かに「身体感覚を乱される」という点においては、この症状も恋煩いも、大した違いはないのだろうと思った。
 居住まいを正して問いを発する。
「して、どのようなご用件でございましょうか、将軍様」
「うむ、実は―――相談なのだがな」
 将軍は華子をちらりと見やり、振り返りもしない彼女のうなじに見惚れたのか笑みを色濃くした。秀吉は不機嫌そうに唇を引き結ぶ。華子は、此処に半兵衛が来た時よりそれだけが救いであるかのようにこちらだけをじっと見つめている。
「此度の正月は盛大な宴を催そうかと思うてな。何せこの義昭が将軍になりてより初めて京の御所で迎える新年ぞ。祝わねばなるまいよ」
「御意」
「されど、朕とてそちらの事情は察しておるわ。未だ世を平定した訳でもないこの時期に宴など開けるものかと申すのであろう? だが、新年を言祝ぎもせずにいくさ神がそちらを祝福するはずもあるまい」
「仰る通りでございます」
 最初は「宴を開きたい」一点張りだったろう彼を誰が何処まで言い含めたのか、まぁまぁマトモな意見には仕上がっている。好き好んで将軍に意見する人間など限られているし、秀吉か、光秀か―――あるいは其処にいる白拍子か。
 此処からが本題だと将軍は膝をひとつ叩いた。
「ならばせめて祝いの舞いを奉納せんと考えてのう。さいわいにして、いま、朕の傍には稀代の舞い手がおる故に」
「白拍子殿に奉納舞いをご依頼なさるおつもりでございますか」
「うむ」
 順当な意見だ。もとよりそれが目的で招かれた華子だ、否やはあるまい。だが、だとすると―――自分が此処に呼ばれた理由が分からない。
 半兵衛が疑問を口にするより先に将軍が言葉を続ける。
「だが、華子が嫌だと申すのだ」
「………白拍子殿が?」
「故に―――お主に頼みがある」
 嫌な予感に眉を顰め、此処に来て初めて半兵衛は自らの意志で華子を見つめ返した。相変わらずの整った顔立ちに少しの疲れと怯えを滲ませたまま彼女は視線を横へと逸らす。
 いよいよ事態が切迫しているらしい、けれど己には逃げる術もない。
 もとから「秀吉」と「将軍」というふたつの切り札は華子の手に握られている。
「………体調でも優れぬのですか。いざとなれば他の白拍子殿をお招きして」
「何を申すか、半兵衛。最早この華子を置いて他に奉納舞いを献上できる者はおらぬ! 一度でも華子の舞いを見た者であれば異論はあるまい。お主もそうではないのか」
 実力だけで言えば反対はしない。異存も文句もない。
 ただ。
『個人的な異論反論はあるんだよな………』
 総兵衛が微苦笑を零している。
 ごくごく少数に過ぎない意見が聞き入れられるとも思えなかった。やや離れた場に座した秀吉は将軍の味方をするでもなく、半兵衛を庇うでもなく、只管に華子の後見人のような顔をしてこの場にいる。
 ―――それが、少しだけ。
「だからこそお主に頼むと申しておるのではないか、半兵衛」
「私めなどに何が出来ましょうぞ」
「華子は、お主が共に舞うてくれるのならば奉納舞いも捧げようと申したのじゃ。この頼み、聞き入れてくれるな?」
 ―――嗚呼。
 やはり、そう来たか、と。
 僅かに顔をうつ伏せて、両の拳を畳に押し付けて、目を閉じた。
 どうあっても彼女は自分を「舞台」に引きずり出したいらしい。体調不良を理由に場を離れるのであれば、いっそ「役者」として引きずり出してしまえと―――将軍や、秀吉や、他の諸将が彼女の舞いをこそ優先すると見越した上で。
 彼らには相方代わりに引きずり出される者が誰であろうと関係ない。
 彼女が新年に神に奉納舞いを捧げる―――それだけが最優先事項となっている。
「………ご指名を受けた理由が分かりませぬな。私など白拍子殿の舞いを穢しこそすれ助けになるとも思えませぬ。より、実力も明らかな他の舞い手をお招きすべきではありますまいか」
「だが、華子本人がお主でなければ引き受けぬと申しておるのだ。朕とて武士たるお主に頼むのはすまなく感じておるのだぞ」
「ありがたきお言葉………」
「半兵衛、これは勅命である。華子と共に奉納舞いを捧げよ」
「なれど」
「それにのう、半兵衛」
 眉間に寄せられていたしわを僅かばかり緩めて、将軍はゆっくりと言葉を噛み砕いた。
「朕は伝え聞いたことがある。織田の中に、巫子と見紛うばかりの舞い手がおるのだと」
「初耳でございますな」
「かつては『きつねつき』とも称された、色素の薄い、髪の長い男と聞いておる。―――のう、半兵衛。朕はお主の奏でる琵琶の音に行軍の最中に救われた。その時と同様にまた朕をそちの舞いで救うてはくれなんだのか」
 ………ため息しか出てこない。
 そっと秀吉を窺い見れば、彼の視線は常に他へと逸らされている。
 即ち、未だ面を伏せたままの白拍子へと。
 ―――いずれは聞き入れねばならぬ申し出だとしても、将軍から直接に言われるよりは。
 いい加減、自分も諦めが悪いものだと苦く笑う。
「秀吉殿」
 抑えた声音で名を呼べば遅ればせながらも秀吉の目が半兵衛へと向いた。そこに篭められた感情は親しみや同情や信頼といったものではなく、どちらかと言えば嫉妬や疎ましさや苦手意識などが含まれているようで、ならば彼が自分の見舞いにも訪れぬも道理と合点が行った。
(―――申し訳ありません、秀吉殿)
 不快にさせたい訳じゃなかった。それでも尚、自分には彼の後押しが必要だ。
「将軍様の命を受けて宜しいでしょうか。上役たる貴方様の判断をお願い致します」
 しばし秀吉は戸惑いの色を浮かべる。
 だが、視線はすぐにまた華子へと移り、半兵衛の上にそれが戻された時には迷いなど欠片も見受けられなかった。
 正面切って向き合い、宣言する。
「―――拝命せよ、半兵衛。華子殿と共に正月の席で奉納舞いを献上せよ」
 驚いたことに、告げられた言葉に覚えたのは悔しさや悲しみよりも諦めに近い感情だった。
 そうだ、自分は。
 端から彼女相手に勝とうなどと思ってはいなかった。ほんの少し、期待していただけだ。主の意向が己と異なっていたからといって何の不満があるだろう。
 ゆるやかに。
 おだやかな笑みを浮かべて半兵衛はこうべを垂れる。
「―――仰せのままに」
 視界の隅で華子が艶やかに笑っていた。




 外では雪が降り続いている。吐く息も白く凍っている。後ろ手に締めた襖がやけに寂しく感じられて、口元に刻んだ苦笑を近習に見咎められるのではないかとの考えすら遠かった。
(………まあ、予想通りだな)
『そうだな』
 半兵衛と総兵衛は互いに何となく頷きあった。
 部屋を出てしばらくしたところで小一郎たちと鉢合わせる。既に話を伝え聞いていたらしい彼等は明らかに憤っていた。特に、小一郎に至っては普段穏やかな彼らしからぬ激しさで怒りを露にしていた。
「今度という今度は兄さんに愛想がつきましたよ!」
「まあ、落ち着いてください」
「先生は落ち着きすぎです! 幾らなんでも武士に向かって白拍子と共に舞いを舞えだなどと………立場も何も考えていない。愚行です。将軍が無理難題ふっかけてくるのは今更ですが、兄さんがそれを止めようともしないだなんて!」
 慰めるように肩を叩く半兵衛の前で小一郎は萎れてしまう。
 脇に立つ小六や光秀、利家でさえ眉を顰めて事態を憂えていた。
「俺らもどうにかしたいとは思っているんだがな」
「お松にも苦言を呈されたよ。一体、在京の織田軍はどうしてしまったんだとね」
 対する半兵衛には取り立てて反論する言葉もなければ、同意もない。曖昧な笑みを浮かべたまま困ったように小首を傾げてみせた。
 彼らが我が事のように悩んでくれるのは嬉しいが―――別に、大したことじゃないのに。
 人前で白拍子に混じって舞うことも、武士の建前も、好奇や同情の眼差しを向けられることも。
 だから浮かべるのはいつだって何処か諦観と鳥瞰を含んだ微苦笑になる。
「皆様方が怒る必要はございませぬよ」
「だって! 先生は悔しくないんですか?」
「確かに、ある意味、ため息が零れるような事態だとは思うのですが」
「なら」
「それでも拝命せよと仰せられたのは秀吉殿なのですから、逆らう道理が何処にございましょう」
 一度命ぜられたなら、喩えそれがどのようなものであれ。
「大丈夫ですよ」
 自身では平然とした態度のつもりでゆっくりと微笑んだ。
「ご心配頂くには及びませぬ。周囲から何を告げられようとも、頓着するものではございませぬ」
 皆が黙り込んでしまったのに素知らぬ態度を見せ続け、視線を逸らした先、部屋を出てくる影に気が付いた。白い衣装を揺らし、長い髪を風に靡かせながらこちらを見つめる彼女は明らかに自分を待っている。
 失礼、お先にと。
 挨拶もそこそこに場を離れて彼女のもとへと向かった。背中に光秀たちの不安そうな視線を感じる。そこまで己が弱って見えるのかと、何となく半兵衛は困ってしまった。
 華子の前に立ち表情を曇らせる。
「―――何を考えていらっしゃるのですか」
「何、だなどと………決まっているではございませぬか」
 彼女もまた面を伏せ気味にしながら呟く。耳にかけていた髪がさらりと解けて彼女の頬を隠した。
「こうでもしなければ貴方様はわたくしに会おうともなさらない」
「体調が優れませなんだからな」
「見舞いへ行こうとすれば茜様に止められました」
「病を伝染すもとにならぬがため」
「小一郎様たちの見舞いは受け入れたのにですか。納得がゆきませぬ」
 詰られて、勘弁してくれよと天を仰ぎたくなった。
 まるで遣り取りが痴話喧嘩のようで気が滅入る。
「あの時はまだ調子が良かったのですよ。しかし最近に至り、いよいよ果々しくなく………小一郎殿たちの訪問を受けたのも既に五日ほどは遡りましょう。それまで咎められては成す術もない」
 語りたいのはこの件に関してはなかったはずだ、と暗に示せば華子が伏せていた顔を前に向けた。真っ直ぐと揺ぎ無い瞳は舞台上の彼女が常に携えているものでもある。この城内で、彼女のこの瞳を正面きって見たことがあるのは、おそらく半兵衛だけなのだろう。
「………何を、考えていらっしゃるのですか」
 同じ問いを繰り返した。先ほどとは少し異なる意味を込めて。
 違うことなく意図を読み取った相手はきっぱりと言い切る。
「わたくしが誤っているとは思いませぬ」
「手順も何も知らぬ無作法者を奉納舞いに参加させることが過ちではないと? 如何なる判断のもとに私などを相方に選ばれる。いまからでも遅くはございませぬ。私では釣り合わない。貴女ひとりで舞いを捧げるか、代役を捜すべきです」
「嘘を申されますな」
 うっすらと華子が艶だ。
「わたくしめには半兵衛様の舞いがありありと思い描けます。共に舞い、共に舞いを捧げ、巫子たれるのは貴方様をおいて他にはございませぬ」
「とんだ買い被りですな」
 肩を竦めて視線を真横の庭へと流した。
 降り続く白雪は空が夜の暗さを湛え始めても衰える気配がない。
「期待に応えられるとは思えない」
「貴方様が応えられぬならこの世の他の誰にも応えることは叶いませぬ。巫子は、誰もがなれるものではないのですよ」
 す、と両の手を広げて、まるで天を支えるように腕を伸ばして。
 陶然とした様子で華子は語る。
「―――其も、舞いは天地を繋ぐもの。この歩みは地を鳴らし、この仰ぎは天を支う。狭間に存する巫子たればこそ成せるものにございます」
 半兵衛も、また、手を伸ばした。
 てのひらに触れた雪が徐々に形を崩して透明な雫へ変じていく。
 彼女が語る内容を直感的に理解できる。だからこそ、困る。知り得た事実から目を逸らそうとするのは本意ではない、が、いま此処で「真実」なるものを受け入れたなら、自分がどうなってしまうのかも分かりかねた。
 そしてまた、彼女が『何』に舞いを捧げようとしているのかも―――量りかねた。
 軽々しく返すことも不可能だ。
 せめてこれだけは否定しておきたいという一言だけが唇から漏れる。
「私は―――巫子ではない」
「いいえ」
 否定はあっさりと否定で返された。
 華子は捧げていた両腕を下ろすと実に艶やかな笑みを刻んで半兵衛を見つめた。
「例えいまは違えども、わたくしが貴方のしるべ、貴方の導き手。出会うは宿業、捧げるが宿命」
「………」
「逃れようなどございませぬ」
 さりとても、我が意志のもとで応うるは否、とばかりを。
 念じながらも言葉にすることが出来ず半兵衛は視線を空へと転じた。
 指先に残った雪の欠片が殊更に冷たく感じた。




 冬の風物詩は「朝」なのだと誰かに聞いた。物凄く寒い冬の早朝に、寒さを感じながら、火鉢なんぞに当たるのが風流なんだと。
 わざわざ火鉢なんぞ用意せんでも寒さなんて嫌でも感じられるんだから、風雅もくそもないだろうと思う自分はやはり雅ごとに向いていないに違いない。
「くしっ!」
 くしゃみが出る。
 鼻をすすりながらこの冬一番の寒さに秀吉は身を震わせた。太陽の光が雪に反射して庭が金色に染め上げられている。目も開けていられないほどの眩しさは秀吉にとって実に好ましいものである。日が昇れば消える雪や氷がこの時ばかりは黄金のように感じられて。
(いかんな………どうも世俗的になりがちだ)
 一方で、この光景を華子に見せたなら綺麗だと喜んでくれるだろうかとも考えた。
 先ほど霜に混じって咲く白い花を見つけた。名前も知らないこの花を後で持っていこうと思う。きっと気に入ってくれる。
 華子のことを想い少し緩んだ表情は、しかし、続いて連想された人物を思ってすぐに固くなる。
 ―――半兵衛と、総兵衛。
 彼らに関してはこのところずっと頭を悩まされている。
 寒さの厳しい折りには体調が悪くなるのはいつものことで、仕方がないと思う、が。
 それを言い訳に彼らは華子を避けているように思えて腹立たしい。おとなしく静養しているはずが、寝込んでいるはずが、時折り自室で琵琶を奏でてさえいるし。おまけに聴こえてくる音色は澄み切っているものだから、あれは白拍子殿を想うているのだ、あれは切ない恋の歌なのだと、周囲も実しやかに噂してくれて落ち着かないことこの上ない。
(何だってんだ―――畜生)
 舌打ちした。
 凍える手をすり合わせながら庭へ踏み出せば、足下で霜柱が壊れた。
 半兵衛は華子に会おうともしない。けれど華子は明らかに半兵衛の訪れを心待ちにしている。
 それが許し難い。
 昨日、出会った半兵衛は確かに青褪めていたし、やせ衰えていたとも思う。しかしそれは所詮、奴の日常に分類される程度の体調不良のはずで、本殿まで来られるくらいなのだから、つまり本当に臥せっていた訳ではなかったのだ。
 見舞いに行ったこともないのに秀吉はかなり勝手なことを考えている。
 おまけに奴は華子に指名されたのを迷惑に感じていた。将軍に隠し果せたところで自分の目は欺けない。役を降りたい態度が見え見えだったから拝命するよう切り捨てた。半兵衛こそが華子に選ばれたという事実は耐え難いが、華子が誰かに拒否される方がより耐え難い。
(………俺が悪いってのか?)
 正月の段取りを将軍と相談し、部屋に戻ったところで小一郎と小六、利家に取り囲まれた。
 彼らは口々に命令を撤回するようにと申し立てた。将軍の意志を汲まねばならない織田の立場を懇切丁寧に説いてやっても聞きやしない。今度ばかりはあいつらにもほとほと愛想が尽きた。
「兄さんは、おかしいよ」
 弟である小一郎―――秀長は恨めしげな目をしてそう吐き捨てた。
「一介の白拍子と軍全体を秤にかけてる。どっちを優先するかなんて分かりきってるはずなのに」
「だから俺は織田と将軍の繋がりを優先してるんだろうが。将軍の機嫌を損ねるのは得策じゃない」
「―――兄さんが本当に優先してるのは別の繋がりでしょ?」
 小一郎があざ笑うように口元をひん曲げた。弟のこんな表情を見たのは初めてな気がする。
 口論に発展しそうだったふたりに割って入ったのは小六だった。小一郎の肩を軽く叩き、「冷静になれよ」と諭しながら別室へと連れて行く。
 途中、彼が振り向いて。
「秀吉」
「何だ」
「お前………変わったな」
 腹立ち紛れに手元の竹簡と向き合っていた秀吉は眉を顰めた。
「以前なら、俺たちの意見にもっと耳を傾けただろうに」

 いまのお前は―――切り捨ててばかりだ。

 呟いて部屋を辞した小六たちの後に利家も付いて行った。去り際に投げかけられた瞳が非難の色を強めていたのは多分気のせいじゃないだろう。
(………お前らだって、ヒトのこと言えるのかよ)
 自分がたとえ、あの白拍子に殊更に親切になっているのだとしても。
 ならば例の軍師にばかり肩入れするお前らは何なんだと問いたい。
 中立の人間なんて何処を捜してもいないはずだ。なら自分は、多くの味方がいる軍師よりも、寄る辺ない女の味方になりたいだけだ。
 結果、将軍と手を組む状況になってしまったとしても。

 ―――俺は。
 俺は、間違えちゃいない。

「………!」
 寒さに両腕で身体を抱きしめるようにしながら庭を散策していた彼は、前方の井戸の傍らに人影を見つけて自然と歩を止めた。
 夜の薄暗さと明け方の光が入り混じった微妙な時間帯にだけ存在する奇妙な静謐。まるで、その中に溶け込むように。纏った白い内掛けが身体の輪郭をぼやけさせ、俯き加減の横顔は白を通り越して青白く、結ばずに流したままの髪が背中に揺れている。
 汲み上げた桶を両の手で抱え込んで中の水面をじっと見つめている。身動きひとつしない。
 寒さは健康の大敵だろうにこんなところで何をやっているのかといぶかしむ秀吉の前で、急に彼は手桶を傾けた。
 そして、そのまま。
「―――っ!」

 ザバァッ………!

 頭から水を引っ被った。ぽたぽたと頬や肩を伝わる雫が足元に水たまりを拵える。
 呆気に取られる秀吉を他所に二度、三度―――繰り返し水を浴び続ける。十度近くになるに至って漸く秀吉は我に返った。
 何をしているのだ、こいつは。心頭滅却の類でもなかろうに。
「おい、半兵衛!」
 慌てて掴んだ相手の腕が氷のようで息を呑んだ。
 動かない自らの手首を見て、それからやっと誰かに掴まれていると理解したのか、半兵衛がのろのろと秀吉に目を向けた。薄闇色の瞳には何の感情も窺えなくてまた別の意味で背中を冷たい汗が伝う。
 幾度かまばたきをしてから部下はぎこちない笑みを浮かべる。
「ああ、秀吉殿。おはようございます。お久しぶりですね」
「―――昨日会ったばかりだろうが」
「そうでしたか? おかしいな………随分と久しぶりな気が―――」
 井戸の縁に置いたままの桶に手をかけて半兵衛は何処か曖昧な口調で語る。未だ秀吉は彼の腕を捕らえていたのだが、相手は全く頓着していないらしい。
 正面から朝日を浴びて眩しさに目を細める秀吉を他所に、ぽつりと呟く。
「秀吉殿」
「何だ」
「―――やめませんか」
 主語の欠けた科白に首を傾げる。そんな主の反応を知ってか知らずか、半兵衛が言葉を続けた。

「私を………奉納舞いに使うのはやめにしませんか」

「何だ、いきなり」
 虚を衝かれて秀吉は目を瞬かせた。
 と、その驚きの後に残されたのは、こいつもあいつらと同じ文句をつけるのかという不満と嫌悪だった。一体全体、あいつらも、こいつも、華子を何だと思っているのだろう。もし自分にその実力があったなら進んで相方を務めたいぐらいだのに、何故か選ばれた側は愚痴ばかりを零すのだ。
 半兵衛の髪を伝い落ちた雫は寒さの中で凍てつきつつある。
「きっと、私などでは白拍子殿の邪魔にしかなりませんし。私がやらずとも―――」
「だが、華子殿はお前でなければ駄目だと言ったんだ。珍しくも強い言葉でそう主張したんだ」
「………」
「第一、昨日お前は拝命しただろうが。一度受けた命を断れば角が立つ。折角の将軍の覚えも悪くなっちまうぞ」
 断ったところで利はないのだと言葉を重ねれば、ずっと顔を俯けていた部下が微かに口元を歪めた。笑みのようでもあり、悲しみの表現のようでもあったが、朝の光が眩しすぎていずれにしろ細かな判別などつけられようはずもなかった。
 ちらりと流し目。
 薄闇色の瞳が明け方の光を受けて透明に近い色を湛えている。
 そうですね、と彼は頷いた。
「いま、秀吉殿にとって一番の大事は―――それなのですから」
「………含みのある言い方だな?」
「何をどう含むのやら」
 クスリと笑いを零して、面を上げた彼は真っ向から朝焼けを見つめる。下手すれば網膜を焼き尽くしそうな清冽な白い光に負けぬほどに凛とした気配を携えて。

「―――巫子にあらずも、巫子にありて、曰く」

 言葉、紡ぐ。

「………舞いと共に巫子は身を捧ぐ。我が足は地を捕らえ、我が腕は天に伝う―――我は天の恵みを受くる神器也。身<シン>を捧げて神<シン>となり、行きては心<シン>を喰わるるもの」

 いきなり語りだした半兵衛に目が点になる。
 前々から謎の会話を繰り広げてくれる奴ではあったが………寒さでいよいよ頭の大部分が死滅したのだろうか。あるいは熱があるとか。
 しかし、そんな状況下においても朝日に照らし出される姿は悔しいぐらい様になっていて、不本意ながらもそれだけは認めずにいられなかった。確かに、形も魂もよく出来た男ではあると思うのだ―――性格は妙ちくりんだけど。
 さり気なく真実から目を逸らしつつある秀吉は、故に、気付くことが出来なかった。
 語る部下の瞳が常の輝きを失い、奇妙なまでに透明な色を湛え始めていたことに。
 手桶の水面の向こう側に垣間見える世界に捕らわれつつあるという事実に。
「―――」
 と、口を噤んで。
 彼は素早く背後を振り返る。つられて首を後ろへひねった秀吉は、庭に出るための縁側にひっそりと佇む影を見い出して笑みを浮かべた。白い内掛けと赤い袴、それは見間違えることないここ最近の白拍子の服装である。
 半兵衛が手桶を置く。
 囁いた。
「………秀吉殿」
「―――え? あ、な、何だ?」
 華子にどうやって言葉をかけようかと悩んでいた秀吉は咄嗟の返答が遅れた。常ならば苦笑が返されるような状況だが、不思議と部下は表情を緩めることもなく、むしろ能面のような顔つきのままでふらりと歩を踏み出した。
「おそらく、これから振り付けや演目を考えることになるでしょうから………通常業務は滞ります。任せてもよろしいですか」
「何いってんだ。最近はお前、さぼりっぱなしだったろうが」
 体調不良もいい加減にしろ。事務方の仕事さえこなせないなら故郷に戻り養生に専念してしまえ。
 手厳しくも思えることを告げてやれば、まるで最後といった風情で、僅かだけ振り向いたギリギリの角度で、半兵衛は口元に笑みを刻んだ。
「―――宜しく、お願い致します」
「………」
 返す言葉もなく。
 さすがにこの時ばかりは、華子に声をかけに行くことも憚られて、おとなしく彼の背中を見送った。
 明け方の光を背に受けながらも未だ陽の届かない暗がりへと入り込んで行く部下に、いつか―――あるいはいつも、いつでも。
 自分は彼をこうして見送ってばかりいるのだろう、と。
 妙な確信を秀吉は得たのだった。




 履き潰した草履を脱ぎ捨てて縁側へと上がる。日陰は少しのぬくもりも感じられなくて身が震える。
 すれ違い様に華子が往生際の悪いことをと詰った。
 追ってくる黒瞳を受け流そうとして、受け流しきれなかった半兵衛はいまにも止まりそうな鼓動を内掛けの上から片手で押さえ込む。
 確かに背後で彼女が笑っていた。

「あなたは本来、巫子たるべき方だったのですよ」
「………否」

 だが、この否定の言葉もいつまで返せるのだろうかと。
 身を伝わる苦痛に耐えながら半兵衛は暗い廊下で目を閉じた。

 

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