―――あれは。
 あれは、誰だ。
 誰かが………舞いを舞っている。

『自分』は闇の中で目を開けた。
 黒一色に塗り込められた空から桜とも雪ともつかない白く儚いものが降り注ぐ。辺り一面暗い世界でぽっかりと白く浮かび上がる大地がある。まるでそこが舞舞台であるかのように舞い続ける影がある。
 舞うは蒼い衣、蒼い扇。ひるがえる袂に従い揺れる長い髪。垣間見える切れ長の瞳は薄闇。白い面。

 何処かで見た顔だと思う。でも思い出せない。
 全く知らない人間だと思う。でも懐かしさを感じる。

 一身に花びらと雪を受けながら、そこのみ切り取られたようにぼんやりとした光で覆われた一画で扇をひるがえし、袂を返し、髪をなびかせながら舞い続ける。その様は儚いと同時に気高く、孤高であるが故に切なく、神に捧げられる供物の如き敬虔と慈悲と無情とを孕んでいた。
 見ているだけで泣きたくなる。ひとりで見つめるには淋しすぎた。
 いや―――違う。
 他にも、『見』ているものは、いた。
 空から、木の陰から、足元から、感じる他の『もの』の視線。
 一心に舞い続ける者に密やかに近づく気配がある。そっと闇の中で手を伸ばしている。もうすぐ手が届くと舌なめずりしている。

『………!』

 叫びは声にならなかった。
 逃げろ、とも、気をつけろ、とも、言えなくて。
 白い舞台にじわじわと黒い影が近づく。影は舞い手をいとおしむように傍らに立ち、後ろに控え、じっとその姿を見つめている。
 この舞いは『己』に捧げられたのだと無言で語っている。
 ヒトガタをとった黒い影が手を伸ばす。
 手が、蒼い衣を捉えた。
 舞いが遮られる。突如、動きを遮られた者は僅かな驚きを内に秘めて振り返る。影が笑った。

 ―――やめろ………!

 やはり、叫びは、言葉にならない。
 しかし、弾かれたように舞い手がこちらを振り向いた。
 ゆるくうなじで結ばれた髪が広がって、垂らされた前髪がその表情の半ばを覆いつくしていようとも、真っ直ぐな瞳と無垢な表情に射抜かれる。
 それは確かに―――見知った『誰か』の顔だった。
 脳裏に飛来したその名を呼ぶより先に。

『………!』

 影が、手を、伸ばして。
 蒼い衣全体を闇で覆い隠した。誰の目にも触れぬよう。
 ―――そして。

 闇に浮かび上がる孤独な白い地帯には降り積もる花びらだけが残された。

 


> 天舞


 


 ガッ!

「………って!」
 座り込んだ縁側、凭れていた柱の角に額をぶつけて思わず呻いた。居眠りしていたのだろうか。手入れの最中だった刀がてのひらに握られたままでいて、下手したらこれで指の一本でも切っていたかもしれないとぞっとする。
 刀の切っ先を布で磨く作業に戻りながらぼんやりと秀吉はいまし方の夢のことを考える。
 細部までは思い出せないが、随分と印象的な内容ではあった。それに、全体的に綺麗で儚い感じのするものだった。
(………蒼い衣?)
 視覚として記憶に焼き付けられた暗闇と白い光、そして蒼い衣。
 衣、と思うからにはそれを纏う者がいたのだろうが、生憎と誰だったのかまでは覚えていない。
(―――誰だ?)
 華子かと思い、すぐに打ち消した。彼女なら緋色を連想する。蒼は違う。少なくとも彼女ではない。
 だが他に誰がいるのかと言うと全く浮かんでこないのだった。
 膝に手をついてあごに指先を添える。ぼんやりと思い巡らす耳に遠くから和琴の音色が届けられる。切れ切れに、細やかに、切なく、か細く、ここ数日途絶えることなく響いてくる音色。
 音色のもとには『彼女』がいる。そしてまた、『彼』もいる。
 新年の奉納舞いを仕上げるためにずっと共に過ごしているのだ。自然と秀吉の眉は不機嫌な方向に曲げられた。彼女が望んだことだ、将軍の命令だ、仕方ないことだと考えてもこころが不満を訴える。
 徐々に夢の内容は彼の頭から忘れ去られ、代わりに訪れた現状への不満や嫉妬、山積みにされた問題などが全てを追いやってしまう。琴の音が耳に届く度に、ふたりが一緒にいる事実を突きつけられて腹立たしくてならないから、この頃は和琴の音色を故意に意識から排除している向きさえある。
(くそっ)
 誰に向けたか分からない悪態を呟きながら刀を鞘に収めた時、ドタドタと廊下を伝わってくる複数の足音に立ち上がった。
 丁度、振り向いた先の廊下から、小一郎たちがこちらへやって来るところだった。珍しいことに今日は小六と利家に加えて光秀まで後ろについている。一体何の騒ぎだと首を傾げる彼のもとへ急ぎ足で小一郎が近寄った。
「兄さん」
「どうした、小一郎。何かあったのか?」
「特別な事件て訳じゃない。でも、兄さん。今日こそ話を聞いてもらいたいんだ」
 意を決するように弟はそこで一呼吸を置く。
 胸元に拳を当てて彼に訴えた。
「早く、先生を止めてほしい。先生に命令できるのは兄さんだけなんだ。だから、早く」
「止める?」
 止めるって、何を。
 と、素で秀吉は考え込んだ。
 半兵衛が突っ走るなんてまず有り得ないし突っ走ると言ったっていまは冬で外は雪に埋もれてるし馬鹿をやるとしたら総兵衛だがあいつが小一郎の前に姿を現すなんてことは万にひとつも―――。
 などと頭を捻っていたら痺れを切らしたのか苛々と小一郎本人が回答を口にした。
「だから、あの舞いだよ! 兄さんも気付いてるんだろ? 根を詰めすぎもいいとこだ、あれじゃふたりとも倒れてしまう!」
 こっちの声なんて届いてやしないんだと弟は嘆く。
 涙ながらの訴えを聞いた兄はしかしながら不機嫌そうに口を引き結んで即座に否定した。
「馬鹿を言うな。あれは業務だ。将軍からの命を果たそうとすれば多少の無理ぐらいはするさ。大体、半兵衛のことだから根を詰めると言っても―――」
「尋常じゃないから訴えてるに決まってるだろ! 兄さんは何も気付いてないのか!?」
 小一郎が声を荒げ、自分よりやや低いところにある兄の胸倉を掴み上げた。秀吉はそれを軽く払い除け、何故こんなにこいつは激昂してるんだと不思議になった。傍らに控えた小六も、利家も、歯がゆそうにこちらを見つめている。
 兄弟喧嘩を間近で見物する羽目になってしまったほぼ部外者に近い光秀が殊更に深いため息をついて見せた。言いにくそうにしながらも静かに秀吉と小一郎の間に割って入る。
「―――秀吉」
「なん、だ」
 相手が溜め口で来たから溜め口で返す。常ならば考慮する公私の立場も頭からぶっ飛んでいた。
「敢えて問おう。お前は、半兵衛にその命を下してよりのち、奴に会いに行ったことがあるのか」
「………?」
「白拍子殿と一緒に稽古に励んでいるだろう現場に足を運んだことはあるのかと聞いている」
 久しく聞いた事のない光秀の詰問口調にようよう秀吉もひん曲げていた口を元に戻した。
 そんなの、聞かれるまでもなく。
「訪れてはいない。邪魔になるかと思ったからな」
 真実はもう少し違うのだが理由を詳らかに語る必要もない。
 とりあえず光秀にとっては行ったかどうかが重要だったらしく、来訪の経歴もないと言う名目上の半兵衛の主の挙動にひどく悲しげな色を浮かべた。
「そうか、ならば止めぬままでいるのも仕方あるまい」
「どういう意味だ?」
「―――秀吉。お主にもずっと聞こえていたはずだな。このところの和琴が」
 無論、聞こえていた。
 意識して耳から追い出そうと努めねばならぬほどに届いていた。

「ならば問おう。お前は、ここ数日、和琴が『途絶えた』のを聞いたことはあるか」

 相手が何を言いたいのか咄嗟に理解できなくて眉をひそめた。
 音―――音、は、常に聞こえていた。嫌というほどに。
 ならば………。
 途絶えた、ことは? 聞こえなかった時は―――あるのか?
 ようやく秀吉にも事の深刻さが感じられてきた。焦りと共に見つめ返せば強い頷きで肯定される。
「音を以って判断するのは早計に過ぎるかもしれない………だが、ここ数日、和琴は一時も絶えたことがない。今日で四日目になるというのに」
「じゃあ―――あいつらは」
「不眠不休でいる可能性が高い。小休止のひとつもないのだ、幾ら何でもおかしかろう」
 実際に様子を見に行ったが、とても口出しできる状況ではなかったと光秀は唇を噛み締める。
 秀吉は、同じ組でもない光秀が彼らの身を案じて様子見に訪れていたことに何故か非常に衝撃を受けていた。どうしてお前が、どうして俺より先に、と。
「来て欲しい。もはや彼らを止め得るのはお主だけなのだ。半兵衛に………我らの声は届かない」
「―――わかった」
 促されて光秀の後に続けば、背後から他の面々も付いてくる。
 思いも寄らない事態に聊か頭が混乱気味だ。あのふたりが共にいる様を思い描きたくなくて無視を決め込んでいたが、まさか、音が鳴り止まないなどと言う異常な状況になっているとは考えもしなかった。彼らの言葉が真実ならば―――確かに、思い出してみればそうだったのだが―――夜間も和琴は響き続けていたことになる。いい加減、諸将も妙に思い始める頃だろうに、誰も騒いだ様子がないのは何故だろう。皆、秀吉と似たような理由であのふたりの間に割り込めずにいたのだろうか。
 角を折れ、廊下を渡る度に音色が明らかになっていく。
 気付けば響いてくるのは和琴ばかりではない。むしろ明らかなのは揃い踏み鳴らされる足音。楽に添い、間を揃え、途切れることなく聞こえてくる。
 奥にあるのは華子が練習に打ち込めるようにと仕切りを外して作り上げた広間である。邸内でも隅に位置するその部屋の前で佐助が腕組をして佇んでいた。光秀が手を上げれば門番役を勤めていた彼はこうべを垂れる。半兵衛の上役たる秀吉よりも、光秀に対して礼節をつくす男だ。

 タン!

 一際高い音を奏で、終ぞ途絶えたことのなかった和琴が急に息を潜めた。皆で訝しげに顔を見合わせる前で、楽を手にした茜が険しい表情で内を見つめている。何事かと揃って駆け寄り、佐助や茜に倣い、室内には踏み込まぬ廊下より中を覗き込み―――。
 息が、止まるかと思った。
 灯りはともされていない。
 開け放たれた障子と、壁に刻まれた格子窓から射し込む天然の光だけを頼りに。部屋に響くのはいまは和琴でも足音でもなく、荒いふたつの息遣いのみ。
 右手には半兵衛が。
 長い髪をうなじで結わえ、白い内掛けを纏っただけの身で蒼い扇を手に座り込み、背を壁に預けて。
 左手には華子が。
 黒髪を乱れさせたまま、緋袴の裾も歪ませて扇を頼りに膝をつき、いまひとつの手で胸元を抑えて。
 共に呼吸を整えることに必死になっている。疲れ果てた様子とは裏腹に瞳は炯々と輝き、視線はひたと向き合い、不躾なほど互いに注がれる。誰にも付け入る隙のない完全な緊張に場は支配されていた。
 やがてふたりは操り人形のような動きで同時に立ち上がった。
 部屋の隅から斜向かい。右手に掲げた扇で相手を指し示す。
「数日前から―――このような状態です」
 零れたのは佐助の声だ。呆然としていた秀吉が我に返って声の主を仰ぎ見る。相手はそれに頓着せず、ただ、無表情なはずなのに沈痛と分かる面持ちでふたりの動きをずっと追っている。
「食べもしない。眠りもしない。時折り、あのように小休止をし―――水を飲むぐらいで」

 タ、タン!

 床が鳴り響いた。
 間を詰めた半兵衛と華子が互いの扇を打ち合わせる。半兵衛が振り下ろした扇を華子が避け、華子が振り上げた扇を半兵衛が避ける。
 舞い―――と呼ぶよりは、『斬り合い』と呼ぶに相応しい動きを見せながら。
 しかして漂う気配は雅そのもの。朱と蒼の扇、互いの白い衣の袂が身体を捻るたびに浮き上がり彩を添える。靡く黒髪と、色素の薄い髪が、回転にあわせて蠢く様が眩暈のようだ。
「………誰も止められない」
 佐助の言葉は懺悔のようにも聞こえた。
 秀吉もまた、視線を室内に戻して押し黙るしかない。
 何が言えるのか。互いの命をぶつけるようにして舞い続ける彼らに。他の何物も目に入らない熱心さで切り結び続ける彼らに。とり憑かれた人間の如き狂気と狂喜を覗かせながら足を踏み鳴らす彼らに。
 噛み締めた唇の端に血が滲む。
 ―――己では、止められない。
 止められるはずもない。
 お前なら止められる、そう思うのは皆の勘違いだ。彼らの間には誰も割り込めない。敗北感を抱くまでもない単純かつ圧倒的な事実が眼前に展開されている。
 朱の扇を半兵衛が左手で受け止める。
 蒼の扇を華子が左手で捕まえる。
 前髪が混ざり合うほどの至近距離で互いをじっと見つめながらも、彼らの瞳に浮かぶのは情熱でも恋情でも憎しみでもない。何か神聖な儀式を行っているような敬虔さで相方の表情を捉えている。

「………我は、巫子に非ず」

 掠れた半兵衛の呟きに。

「我は―――導き手なり」

 華子が途切れがちな声で返す。

 途端。
 それが合図だったかのように、ふたり揃って部屋の中央で崩れ落ちた。
 ゆっくりと、支えあうようにしながら膝をつき、ひじをつき、こうべを垂れた手の先から扇が零れ落ちた。
「―――っ」
 駆け寄ろうとしたところを佐助の睨みで封じられる。伸ばした腕を虚しく戻して、秀吉は戸惑いも深く見守るしかなかった。和琴を横に退けた茜も中に踏み込む。他の面子―――光秀も、小一郎も、小六も、利家も、何も言うことが出来なかった。
 気絶した半兵衛を佐助が抱え上げ、華子を茜が背負い上げる。
 観衆を振り向いた佐助は乱れない口調で宣言した。
「さすがに、四日目となっては体力も限界だったようです。お二方とも数日は安静にさせた方がよいと心得ますが―――何か不都合はございますか」
「いや………ない。と、思うが―――」
 光秀が困惑しつつも秀吉を見やる。許可を与えるのは己ではないと知っているのだろう。
 こんなものを見せ付けられてまで否やという秀吉ではなかったが。
「―――休ませてやってくれ」
「御意」
 やっとの思いで搾り出された秀吉の言葉に、わざとらしく佐助は一礼を返してみせる。奥では茜も揃ってこうべを垂れている。
 佐助が真横をすり抜ける際、気絶した半兵衛の顔が垣間見えた。数日前に会った時のままの白い内掛け………ならば、あの朝を境に、彼は舞いにとり憑かれていたのだろうか。やせ衰えた身体に射し込む日光までもが痛々しい。
 ―――あんな。
 あんなに、弱っていたのに。
 どうして追い討ちをかけるような真似を仕出かすのか。連日連夜の舞いに興じずとも正月には間に合ったろうに。己がくだした命令ゆえ、だろうか。
 握り締めた拳が震えた。
 小一郎が呼んでいるのが分かる。だが、いまはとてもじゃないが見舞える気分じゃない。石のように動かない秀吉の肩に光秀がそっと手をかけた。
「………明日にでも、来るといい」
 すぐに離れていった腕の持ち主は小六や利家と言葉を交わしながら足音を揃えて遠ざかっていく。
 それが許しなのか、見せしめなのか。
 いまの秀吉には判断をつけることが出来なかった。




 翌日は―――雪がやんでいた。
 目に痛いほどの雪景色と耳に痛いぐらいの静謐。いつになく無音を感じるのはここ数日、故意に排除していた楽の音が真実聴こえなくなったからだろうか。遠目に見やる山の端が霞んでいる。
 昨夜はまんじりともせずに夜を明かしたために健康的な日の光は少々堪える。
 相変わらずの身を突き刺すような寒風を受けながら縁側で深々と秀吉はため息をついた。
「どうしたの? 兄さん」
「何でもない」
 書簡の整理を進めている弟に咄嗟にそう返した。だが明らかな狼狽が声に見て取れて、間髪入れずの切り返しも相手の苦笑を誘うのみだった。
 昨日、既に見舞いをすませた小一郎曰く、半兵衛はひたすらに眠ったままだったらしい。ここ数日の疲れが一気に出たのだろうと言うのが佐助の見立てだった。一方の華子も同様に健やかな寝息を立てながら終日夢の世界の住人と化しているらしい。そうと来ては件の舞いも見せられようはずもなく、さすがに今日という日の朝会も何もせずにお開きとされている。
 軍師と白拍子が同時に倒れたとの噂は最早城内に知れ渡っていて。
 これ以上の喧騒は御免とばかりにこのふたりへの見舞いは早々に禁止されてしまった。
 とはいえ、それが直属の上司たる秀吉にも適用されるかと言うと、決してそんなことはないのだった。
 故に、弟は苦笑をもらす。
「………兄さん」
「何だ」
「行って来たら?」
「何処へだ」
「お見舞い」
 気になるなら行くしかないよと彼は笑いながら包みを取り出した。
 そのまま受け取ってしまった秀吉だが、はてこれは何が入っているのかと首を傾げる。
「それね、お団子。先生が好きって言ってたとこのやつ。自分で届けようとも思ったけど、ほら、雑務が立て込んでるし」
 要はそれを理由に見舞いに行って来いと言いたいらしい。自らの意志で訪れることが憚られるとも、他者からの頼みとあらば無碍に断るのも大人気ない。どうにも踏ん切りがつかない兄への心遣いか。
「頼んだよ、兄さん」
 念押しのように笑顔で後押しされれば、あとは黙って頷きを返すしかなかった。
 此処はひとつ、素直に弟の心遣いに感謝しておくべきなのだろう。誰よりも来訪の理由を捜していたのはおそらく自分自身なのだから。
 やれやれと弁解のように呟いてようやく秀吉は重い腰を上げた。
 半兵衛の部屋は屋敷のやや奥まった場所にある。
 つい先だってまでは頻繁に赴いていたのに、最近は遠ざかりつつあった所でもある。少しばかりの気後れを感じるのはなけなしの良心が己が行為を咎める故か。
(………俺は悪くない)
 と、思う。
 以前ほどその言葉に自信が持てない今だけど。
(………俺だけが、悪いんじゃない)
 滅多に手の内を晒さない向こうだって悪いに決まっている、との呟きは最後の悪あがきに等しかった。
 本当は、彼が、珍しくも弱音を吐いた瞬間を覚えている。
 ―――やめませんか。そう、彼は語ったのだ。

『私を………奉納舞いに使うのはやめにしませんか』

 これまでずっと、秀吉が決めたことならばそのまま付き従っていた彼が、唯一、翻意を促した瞬間。
 何を言っているのかと自分は呆れてみせた。その言葉は意外でならなかったし、裏切られたようにも感じていた。彼が秀吉を否定するなど決して、例え天地がひっくり返ったとしても有り得ないと、こころの何処かで思い込んでいたが故に。
 そしてその思い通りに終には半兵衛も苦笑しながら受け入れた。
 あの場に佐助か小一郎がいたならば苦言を呈されただろうに。
 部屋に至る廊下の直前で立ち止まる。昼、尚薄暗く感じる道には躊躇いを感じた。
 ―――じっとしてたって始まらん。
 深呼吸をひとつして、秀吉は足を踏み出した。
 だが。
「………!」
 つ、と前を塞いだ影に彼の動きは阻まれた。
 間近で見れば非常に威圧的な、自身よりもかなり上方にある相手の顔を睨みつける。部下の右腕だとて無礼を見逃してやるつもりはない。克ち合った瞳は静かな敵意を伝えてくる。
 やるつもりなのか。
 ―――上等だ。
「そこを退け」
 敢えて尊大な態度で秀吉は佐助へと告げた。
 一方の佐助も、引き下がるでなく、詫びるでもなく、無言で道を塞いでいる。語らぬが故に雄弁、というところか。
 ―――腹立たしい。
 刀に手をかけたくなる衝動を堪えて秀吉は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「早く、そこを退け。退かないと―――」
「例えば」
 命令は問い掛けで遮られた。こちらを見下ろす視線はひどく無感動で冷徹だ。
 彼にとっては秀吉が半兵衛の直属の上司であろうと何だろうと関係ないのだろう。揺るぎもしない真っ直ぐな、忠誠どころか崇拝まで混じっていそうな瞳の色が目障りだ。
 例えば、と相手は繰り返す。
「例えば、もし―――信長公を害する者がいたならば、あなたは如何するのですか」
「………何の話だ?」
 佐助がどうしてこのような例え話を仕掛けてくるのか。
 直感的に理解していたがそんなの理解したくなかった。故に、素知らぬ振りを押し通す。
「害されたのが肉体であれ、精神であれ、傷ついたことが明らかである場合―――しかも、眼前に傷つけた相手がいたならば、何とします。更には、信長公本人が表立って下手人を咎めだて出来ない立場にあるとすれば」
「聞くまでもないとは思わないのか」
 僅かに視線を逸らして、低く、ため息混じりに応える。
「必要とあらば生かした後に殺す。必要がなければ隠密裏に殺す。表立って泥を引っ被るのも馬鹿らしいが信長様を傷つける奴に容赦はせん」
「然様でございますか」
 抑揚のない声で佐助が返す。
 光のない黒瞳がじっと秀吉を見据えていた。奇遇ですね、と。

「―――私も同じ心持ちです」

「………」
 秀吉は僅かに眉をしかめるにとどめた。
 佐助は忍びだ。感情を表に出すことなどまずもってない。なのに、これほど明確な敵意を表してくるとは―――それだけ怒りが深いということか。
「あなたがあの方に会う理由はない」
「俺は上司だ」
「それは理由になどならない」
 ぐっと唇を噛み締めて睨みつける。自身の敵意が相手にとって何の脅しにもならないことがこれほどに悔しいなど、未だかつてなかった。例え刀を抜いて斬りかかったところで軽々とかわされた上に返り討ちに合うのがオチだろう。
 同じく。
 いずれの影響も考えず、隙を見せた途端にこの男は秀吉を斬って捨ててみせるだろう。
 辺りを吹き抜ける北風と薄ら寒い緊張は、しかし、思わぬ声で遮られた。
「―――構うことないでしょうに」
 降って沸いた美しい声音に驚いて目をしばたかせる。
 佐助が僅かに身体を捻る。廊下の奥で風呂敷を抱え込んだ茜がじっとこちらを見つめていた。そのまま静々と佐助の横をすり抜けた彼女は続ける。
「構やしない。現実を見せるも一興」
「………必要ない」
「必要はあるでしょう。せめて少しでも」
 ―――自分が何を仕出かしたのか、理解してもらわなければならないのだから。
 語る女の瞳も同様に冷たく冴え渡っていた。すれ違い様、流された視線がこちらと交錯する。
「華子様のところへお伺いは立てられましたか」
「いや―――まだ、だが」
「然様でございますか」
 良かった、と零して、いまひとりの忍びは淡々と続けた。

「もし、華子様を優先していたら―――私があなたを斬り捨てていた」

 華子の寝所に踏み込んだ瞬間に、容赦なく。
 佐助よりも一段と濃い暗闇の瞳を秀吉に注ぎながら茜は廊下を渡っていった。戦場でもついぞ感じたことのない怖気に、知らず、秀吉の背を冷たい汗が伝う。
「………」
 ふ、と佐助が息をついた。僅かに周囲の気配が和らぐ。
 何処か投げやりな、見下げ果てたような顔つきで素っ気無く彼は片手を突き出す。
「―――刀を」
「なに?」
「刀を。………いまのあの方の傍に、刃物を置いておく訳には行かない」
 凶器たりうる物は遠ざけておく必要があるからと至極当然のように告げられる。
 普段なら「武士の魂だぞ」とまたひと悶着おこすところだが、先の遣り取りの後で張り合う気はなかったし、何より、自分は「武士」でも「侍」でもなかった。単なる「成り上がり」なのだ―――己は。それぐらい分かっていた。
 舌打ちしつつ腰の大小を差し出した。手つきだけは丁寧に二振りを受け取った佐助が殊更に恭しく一礼する。ムカついたから土産の団子もついでに突き出してやった。
「………主は縁側におられます。どうぞ、御用のある際はお申し付けください」
 呼ばねぇよ、との悪態をもらさずにすますのは一苦労だった。半兵衛に会ったらまず最初に部下をどう躾けているのかと問い質さなくてはならないだろう。幾ら表向き猫を被っているのだとしても、他所ではこれだけ素っ気無いのだとあのきつねつきは気付いているはずなのに。
 とは言え、彼らが特に素っ気無いのは秀吉相手だけなのも、また事実である。
 知らず知らずの内に歯噛みをしつつ。
「………っ」
 廊下の角を曲がったところで歩を止める。
 穏やかな冬の陽が射し込む縁側に、白い内掛けを纏った姿が見えた。

 ―――半兵衛が、其処に居た。




 ………深呼吸を、ひとつ。する。
 いつになく緊張した面持ちでおもむろに足を踏み出した。足音も明らかに近づけども相手が振り返りすらしないことが、ひどく気に掛かった。
 陽だまりに座り込んだ無防備な姿勢。袴をつけない白い内掛けはかつて菩提山に篭もっていた時と同じで、長く色素の薄い髪は流れるままに背中で揺れている。
 ぼんやりと、庭の木々と寒空の下に咲く花を眺め、膝上に投げ出された両のてのひら近くには細かなとりどりの花が散っていた。赤や青などの鮮やかな色彩も混じる花びら。全てが本体から切り離されてはらはらと半兵衛のひざに、床に、庭に飛んでいる。
 やや離れたところに座り、まじまじと彼の横顔を見つめる。
「半兵衛」
 答えはない。無視、されているのかもしれない。
 腹が立ったが、多少は反省していたのでどうにか我慢した。じっと白い面差しを見つめる。
 ………不思議な感慨に捕らわれた。
 こいつ―――こいつは、こんなにも。

 こんなにも、真っ白な、無垢な顔つきを………していた、だろうか?

「半兵衛」
 先よりも強く呼びかける。よくは分からない、だが、妙な焦りと不安が心中に生まれつつあった。
 考えてもみろ、例え佐助が早めに秀吉の道を塞いだとて、常の半兵衛ならば気配を察して出てきそうなものではないか―――。
「体調はどうだ? その………無茶、させたな。しばらくはゆっくり養生してくれ。だから―――………」
 たどたどしく言葉を連ねても。
 呼ばれた側は何も答えない。ただ、静かに、手を動かした。
 指先に触れた花びらをつまみ上げ、目の前まで持ってくると僅かに首を傾げた。ゆっくりと感触を確かめるように唇で触れて、やわらかさを実感するように目を閉じて、のろのろと再び引き上げた視界のもとで花を噛み締める。
 ぷつり、と綺麗に噛み切られた花びらの片方は手の中に残された。片割れは緩慢な動きを示す彼に咀嚼され、やがて微かな喉の動きと共に中へと取り込まれ。
 半分だけの花びらを、彼は、握り締める。染み出した花の香りに酔うように瞳を閉じて。
 ―――壁に背を凭せ掛けた形で。
 俯いた。
「………半兵衛?」
 秀吉はきつく膝の上の両手を握り締めた。
 ―――おかしい。
 何かがおかしい。
 何かが、ひどく、病んでいる………反応がなさすぎる。
 声が届いていないはずはない。聞こえていない訳がない。だが、いまの半兵衛は何も認識していない。あるいは、呼ばれているのが自らの名であると気付いていないのか。いずれにしろここまで応えがないのは異常に過ぎた。
 これでは、まるで。
 生きて呼吸をしているだけの―――人形だ。
「半兵衛!」
 耐え切れずに立ち上がり手を伸ばした。ガッと肩を掴み、無理矢理こちらに顔を向けさせる。
 周囲の花びらが煽りを受けて高く舞い散った。
 散り散りに飛ぶ花びらの中、ゆっくりと半兵衛が伏せていた面を上げる。
「………っ」
 その時の、衝撃を。
 何と表現すればいいのか、分からなかった。
 半兵衛は確かにこちらを見ている。彼の瞳には動揺も露な秀吉の姿が映し出されている。瞳は周囲の景色を捉え、眼前の人物を捉え、認識している。
 それでも。

 それでも―――彼は、何も『視』てはいなかった。

 瞳の色は薄闇でもなく、濃紺でもなく、喩えるならば『透明』で澄み切った鏡のような。
 感情のない瞳は世界を見つめるだけ。耳は周囲の音を捉えるだけ。身体は外界に接しているだけ。
 間近に秀吉がいるにも関わらず何も返さない。ただそこに『ある』ものとして秀吉を捉えている。
 いまの彼にとって秀吉はただの動く『物』に過ぎない。
 周囲の木々や、花と、何ら変わりはない。半兵衛『自身』に触れ得ないものとして、秀吉と他の雑多なものは全て同列の扱いだ。
「………もしか、して―――」
 細かく震える手をそっと相手の頬に伸ばす。触れた手はぬくもりを伝えるのに、鼓動を感じさせるのに、ただひとつ―――半兵衛の表情だけが虚ろだった。
 透明に過ぎる瞳がこれ程に動揺を誘うとは思わなかった。
 何の感情もない瞳に映し出されるのがこれ程に虚しいとは思わなかった。

「お前………何も、わからない………の、か?」

 ―――してみれば。
 面会を拒んだ佐助の判断はまだしも思いやりがあったのか。
「冗談やめろ。俺はお前の上役で、お前―――お前は、俺の、部下だ。そうだろう?」
 両肩を掴んで軽く揺さぶる。それに合わせて前後する半兵衛にはふらふらと揺れる髪が頬に陰を添えるのみで、あどけない何も知らない子供のような、綺麗に彫り上げられた能面のような顔が、力を失ってカクンと折れる。
 彼の手をかなりの強さを篭めて握り締めてみた。骨が軋むほどのそれは、しかし、相手の肌に痣を残しはしたものの、他に何の反応も呼び覚ましはしなかった。半兵衛の顔には苦痛の色すら浮かばない。
「―――馬鹿、言うなっ………!」
 身体が震えるのは怒りのためだ。勝手に愚かな事態に陥っている相手にむかっ腹が立って仕方ないだけだ。
 決して、決して。
 もしかしなくても、先だっての舞いが原因と思われる彼の変化に。
 取り逃した予感に怯えている訳じゃない―――。
「ざ………けんなっ。お前は、俺についてくるんだろう!? ひとりで閉じこもってんじゃねぇ! 自分で立てた誓いも、自分の名前すらも忘れちまったってのかよ!」
 白い面は動かない。
 伸ばした腕で彼の顎を捉え、真っ向から睨みあう。透明な瞳が胸に突き刺さる。
「お前たちが仕えていたのは誰だ? ………俺の名を呼んでみろ。俺を―――秀吉、と」
「………」
 ―――と。
 それまで何ひとつ反応を返しもしなかった白皙に微妙な色が生じた。
 閉じたままだった口がうわ言のように何かを呟きかけ、固定されていた瞳は僅かに左右に蠢いて。

「―――し………?」

 ―――まるで。
 赤子が生まれて初めて言葉を話す場に居合わせたような厳粛さで。
 秀吉は固唾を呑んで半兵衛が紡ぎだす言葉の続きを待った。
「ひ、で、よ………し―――」
 己の名を呟いた。
 不思議な感動と安堵に解けかけた秀吉の緊張は、だが、次の瞬間に裏切られた。
 ピタリと動きを止めた半兵衛はふ、と透明な瞳を眼前の男に合わせると、妙に冴え切った抑揚のない声で語り始めたのだ。
「ひでよし―――木下藤吉郎秀吉―――のちの世に太閤と、豊臣秀吉と呼ばるる者………」
「な………?」
 呆気に取られて秀吉の眉が上がる。
 表情は凍てついたまま、瞳は透明なまま、秀吉をすり抜けて遥か彼方の『何か』を捉えている。
 淡々とした『半兵衛』の言葉は続く。
「望んでも叶わず………求めても得られず………手に入れし先より喪い―――ひとりであることこそ汝が宿業………」
「………」
「主を失い―――友を殺し、部下を………切り捨て………慕えども与えられず。果ての大陸において挑みし時の流れに―――打ち負かされ………失意と失望の………汝を解せし者なく―――解せし者は先を逝く………」
 秀吉は最初こそ呆気にとられていたが、やがて不吉の念が沸き起こると共に聞き捨てならない科白があったことに眉を顰める。自分に対する言葉は無視できる。気にはなるが、気にしないふりは出来る。
 だが、「主を失う」ことだけは認め難い。
 果たして彼の言葉が何を意味しているのかも気になるところではあるが。
「主というのは信長様のことか?」
「………のぶなが………」
 また、うとうとと。
 まどろむ幼子のようにやや瞼を伏せ気味にしながら、ぽつぽつと零れ落ちる言葉はまさしく託宣。
「織田信長―――自らを魔王と称す………太平を望み争い―――起因する矛盾………片割れを求め流離う。己が炎で世を焼き、尊厳を焼き―――いずれは其の身………灰燼と化す………絶やすは、水―――の、花………。狭間―――汝が選択………この―――時代と………の………」
 言葉はたどたどしく途切れがちだ。
 一瞬、力を取り戻したかに見えた瞳の色はいままた涼やかな風に吹かれたかの如く、静かな漣だけを浮かべている。変わらず、秀吉を見ているはずの目で、秀吉ではない何かを見つめながら。
 思わず彼の手を握り締めながら戸惑いも露に呼びかけた。
「………半兵衛?」
 いや、この場合は総兵衛だろうか。
 かつての知り合いに彼らと同じくふたつの人格を持つ少女がいた秀吉には、大体であるが半兵衛たちの身に何が起きたのか察しがついてきた。と、すれば、彼らが『視』ているものは。彼らが語る言葉は、おそらく―――。
 ふたつの人格を併せ持つ少女は、『ひとり』である時に誰よりも確かな『未来』を語った。
 半兵衛の語る言葉はそれとは違う。
 だが、きっと、語る内容は………。
「―――は、ん、べえ」
 どこか幼い声音で彼は彼自身の名を呟いた。
「竹中半兵衛重治―――彷徨う………時を………流され―――導く黒衣―――動かず、の。従うべき宿業、に………逆らえど………切り裂かれ―――ふたつ、と、なりしのち………片割れも消え―――いまひとつ………汝が主の手にかかる―――」
「―――待て」
 思わず秀吉は制止の声を上げた。
 自らのことを見通すには無理があるのか、秀吉や信長の時よりも更に内容が支離滅裂だ。だが、さすがに中途で口を挟まずにはいられなくなった。
 何せ、現時点での彼らの主は秀吉自身なのだから。
(―――俺が、手にかけるって?)
 そんなこと有り得ない。
 と、断言しかかった声は、しかし、いまの状況を思い出して喉奥で突っかかった。
 彼らの体調や願いよりも白拍子を優先した己の行いは、確かに、『手にかける』に相応しい行為だったかもしれないと思えたからだ。
 けれどいまはそんなことを悠長に考えている場合ではなかった。半兵衛は、ずっと、この前後不覚の状態でいるのだろうか。この様では軍師として働くこともままならない。語る内容の総意が掴めるようになれば別の意味で役立つかもしれないが―――。
 でも………違う。
 本当に自分が気にしているのはそんなことではなく。
「何処を見てるんだ、お前………」
 言葉を遮られた半兵衛は中空を見つめたまま微動だにしない。胸に沸き起こる明らかな焦慮、不安、怒り、遣る瀬無さ。
(もしかして華子殿も同様に―――?)
 その考えもまた、秀吉の胸を締め付けはしたけれど。
 恐れているのは、また、少し違う。
「確たることを告げては………くれないんだ、な………」
 半兵衛の精神が遊離した遠因に己が命令があると思うのは、嫌だった。彼のこころが還らなければ如何にしよう。忘れ去られたままでは、困る。軍師がこの状態のままなのは、困る。

 二度と笑いかけてくれないのは―――困る。

 ふ、と秀吉は背後を振り向いた。やや離れた場所から刀を抱え込んだ佐助がこちらを見つめている。
 もう時間ですからと、彼は二振りの刀を床に置いた。秀吉の脇をすり抜けて半兵衛の真正面に座り込む。あどけない、頑是無い子供は小首を傾げて瞬きすらせずにじっと佐助に見入った。まるで相手の正体を推し量るかのように。
「もう休みましょう、半兵衛様。風も冷たくなって参りました」
「………………だれ………?」
 問い掛けは。
 半兵衛の状態を鑑みれば、極めて貴重なものに感じられた。
 ゆっくりと、落ち着かせるように、忍びは滅多に見せない穏やかな微笑みを口元に浮かべる。静かに伸ばした両腕を主君の両頬にあてて、あたかも、親が幼子に語りかけるかのように。
「佐助と申します。あなたの―――付き人です」
「つき、びと………? さ、す、け………いやさき―――わたし、の………」
 ひたと目と目を交し合ったまま呟く。
「わたし、たち、―――さす、け、は―――」
 たどたどしく彼の名を呟きながら、やがて、得心が行ったのかゆるゆると初めて凍りついた面に表情らしきものを刻み込んだ。
「………つきびと」
 花が綻ぶかの如くやわらかに。
 はにかむような笑みを浮かべて、ゆったりと持ち上げた両の腕を佐助の首に絡めた。ささやかな笑い声さえ響かせながら安心しきった表情で相手の身に任せる。
 当然と言わんばかりの態度で佐助は軽々と半兵衛の身体を抱き上げた。ほんの数歩の距離でしかなかったが、室内に敷かれた布団の上まで運ぶと、恭しく手中の身体を横たえた。運ばれた側は既にまどろみの中にいるのだろうか。声を上げることもなく、瞳を閉じて、されるがままになっていた。
 丁寧に布団をかけてやる佐助の態度は何処までも穏やかだ。
 焦りも不安もないその様子に秀吉は舌打ちしたくなる。
「―――お前らは」
 見ていただけで理解できたが、敢えて確認するために言葉にした。
「こいつがこのままでもいいと思っているのか?」
「支障はない」
 健やかな寝息を立て始めた上司をいとおしげに見つめながら彼は応える。我らが仕えるのは変わらずこの方であり、故に、この方がどのような状態になろうとも関係ないのだと。
「目覚めを望むのであればこの方自身のお力で目覚められる。案ずることはない」
「余裕だな?」
「この方は………我らを『認識』してくださっている」
 怯える訳でも、警戒する訳でも、無反応な訳でもなかった。自分と茜のことだけは慣れ親しんだ人間だと知っていらっしゃる、と誇らしげに佐助は告げた。
「こうとなれば戦に出ることもない。この方ひとり、養っていくぐらい容易いこと」
「妙に嬉しそうじゃないか。手元に留め置けるのが至福ってか? ―――歪んでやがる」
「あなたほど我侭でもない」
 佐助がこちらを見やる。縁側から覗き込んでいた秀吉は知らず、きつく、てのひらを握り締める。
「無くしたと見た途端、慌てて捜しに戻るあなたほど勝手でもない」
「―――」
「どうかお引取りを。半兵衛様には休息が必要なのです」
 言い返そうとした秀吉の唇は、しかし、何の言葉も吐き出しはしなかった。
 佐助は半兵衛を見守ったまま振り向く気配もない。病人はすっかり眠りに落ちてしまったようだし、確かに、これ以上ここにいても何も出来はしないだろう。
 最後の意地のように舌打ちしてから立ち上がり、床上の刀を取ると足音も荒く立ち去った。
(―――冗談じゃない)
 佐助や茜は半兵衛がどんな状態でも拘りはしないのだろう。半兵衛が『半兵衛』としてそこに在りさえすれば―――喩え彼が、病んでいようと、こころ閉ざしていようと、他者を認識できなくとも。
 いや、認識はされているのか―――あのふたりは。
 半兵衛自ら………笑いかけてすらいたのだから。
 そう考えた瞬間に身体の何処かが痛んだようで、強く唇を噛み締めた。
(あれしきの舞いが―――何だってんだ)
 思い返せば、半兵衛自身が先に語っていた。その身を捧げることで『神』となる代わりに、やがて『心』を喰われるのが巫子なのだと。
 馬鹿げている。
 本当に、全くもって、馬鹿げている。
 たかが舞い如きに打ち負かされるなんて愚か過ぎて言葉もない。巫子がなんだ。そもそもあいつは巫子ではない。断じてない。そんな舞いなんて舞わない。捧げるべき『神』なんていない。

 天に捧げられた舞いなんてクソ食らえだ。

(嗚呼………でも、俺は―――)
 確かに、あいつが。
 誰かに舞いを捧げているのを見た気がする―――と、一方では感じていた。
 例えば。

 そう―――例えば。
 一身に花びらと雪を受けながら、光を浴びた一画で舞い踊る蒼い衣の青年を。

 痛み出した頭を抑えて秀吉は一言「畜生」と呟いた。
 眦から流れ落ちるものが何なのか決して認めまいとするかのように。

 

<参> ←    → <伍>

 


 

BACK    TOP

 

 


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理