周囲は底の見えない暗闇に包まれていた。その只中に、波間に漂うようにぷかりと浮かんでいる。
 感覚も定かでなく六合の狭間で意識も酩酊していた。時折り片隅で明滅する光を懐かしく煩わしく切なく思いながらまどろんでいる。
 このままではいけない。
 このまま眠り続けたい。
 相反する気持ちは前者に傾きつつある。
 すぐ其処に心地よい眠りを妨げようとする影が、白と黒が交錯する影が、不吉な予感を孕んでたゆたっているから。振り払おうにも振り払えない、遠ざけようにも遠ざけ得ない。
 何故なら―――その影が伸ばした腕は、疾うに自分を捕まえているのだから。

 ―――影が、薄く笑った。
 もう、見つけた。
 もう、捕まえた。

 ほら、もうお前は、なるようになるしかないんだよ、と。




 漸く目を開けて身を翻す。精一杯の力で腕を引き剥がす。そして其処に、確かに見つけたのだ。
 暗闇の中に浮かぶ白い影。周囲が刹那の光に包まれた時に浮き上がる黒い影。
 ぱっくりと口元を三日月型に切り裂いて告げた。

『つかまえた』

 違う。

 まだ、捕まってはいない。
 拒否の意を込めて睨み返す。途端、周囲の闇は消え失せた。

 


<伍> 寄る影、散る影


 

「………」
 見開いた視界に入り込んだのは宙に掲げられたてのひらだった。骨ばった色のない腕は間違いなく自分のものである。
 ゆっくりと上体を起こし、五体満足であることを確認した半兵衛は周囲を見渡して首を傾げた。先刻までの夢も暗示的で要領を得なかったが周りの景色も同様に不思議なものであった。右を見て、左を見て、上を見て、正面を見て。
 改めて呟く。

「―――何処だ?」

 夢から逃れたと思いきや、やはり周囲を占める主な光景はやはり闇だったので。
 足元には緑が生い茂っているが、草の生えている範疇はあまり広くなく、僅か数尺で黒い海原に突き当たってしまう。海原はひたひたと穏やかな波を打ち寄せて、その中に自分が座す一帯だけがぽっかりと浮島のように存在しているのだ。
 背中に当たるのは一本だけ高々と伸び上がる巨木。見上げた梢の隙間から―――少し立って歩けば視界を遮られることもなしに―――上空を仰ぎ見ることが出来た。
 いずこからか射し込む白い光がぼんやりと滲み出している。
 光に照らし出されるのは閂がかけられた八つの木製の門だ。門だけが宙に浮かんでいる様は不気味でもあったし、門を開けた内側に何があるのかも分からなかったが、うち二つだけは閂が開いて中から水が溢れ出していた。溢れ出した水は滝となって浮島に降りかかり、黒い水面に触れて微かな飛沫を生じさせる。
 八つの門の位置は―――木を中心とした八方位に対応しているようだった。
 東西南北と、各間に存在する四方位。
 うち、開いているのは北と北東の二門だ。「開ききった」状態には程遠かったけれど。
 此処に至るまでの状況を思い出そうとした半兵衛は、背後から響く足音に振り向いた。そこに現実では有り得ない姿を見い出してやはりそうかと得心する。己と同じ形(なり)をしていながら全く異なる魂を持った存在。
 彼は静かに口を開いた。
「目が覚めたか」
「ああ」

 ―――此処は。
 此処は、自分たちの『精神』の中なのだな、と問えば「そのようだ」と総兵衛も首肯した。

 叶うはずのなかった邂逅に内心は複雑だ。正面に立つ姿は確かに己のものなのだが決して己と同一ではない。瞳の色や中にある魂が違うだけでこうも印象が変わるのかと感心するほどに。
「不思議だな。こうして相対することはないと思っていたのに」
「総兵衛だってそうさ。でも………ま、それだけ緊急事態ってことなんだろ」
 この対面は互いが共に『表』に浮上できないほど疲弊しきっているから起きた現象に他ならない。そしてまた、自分たちだけではここまで復帰することすら不可能だったのだと総兵衛は告げる。ならば何故いまこうして互いを認識できるまで回復できたのかと尋ねれば、「彼女のおかげだ」と語った。
 総兵衛が指差した木の陰からそっと歩み出た姿に意表をつかれる。
 ひっそりと佇む、銀髪をした巫子姿の少女。白い内掛けと赤い袴の取り合わせが基本的に白黒と緑だけで構成された世界でやたら目映かった。
 知るはずもない面影に、赤の他人が自分たちの『内面』に存在する矛盾に、もっと半兵衛は驚いて然るべきだったかもしれない。
 が、彼女の姿を見た瞬間に半兵衛は理解してしまったのだ。
 嗚呼、彼女が、そうなのだと。

「あなたが―――ヒカゲ殿、ですか」
「ええ。あなたとお会いするのは初めてね」

 まさか最初から言い当てられるとは思わなかったけれど、と少女は微かに口元を綻ばせた。
 かつて、半兵衛と総兵衛の精神は一時、分かたれた。
 慣れぬ行為をしたが故の反動、時間と空間の狭間に飛ばされた総兵衛は、精神が遊離した果てで銀髪の少女と出会い元の道へ帰る術を得たのだ。半兵衛自身はその少女と会ったことも話したこともなかったが、総兵衛の意識や言葉を通じてどのような存在であったかは如実に伝えられていた。だからこそ初対面に等しいいまでさえ相手がどのような人間であるかを知っている。
 彼女は、紛うことなく自分たちの『同族』だ。
 そして、彼女もまた自分たちを『同族』と知っている。
 本来なら彼女の傍らにも半兵衛にとっての総兵衛、総兵衛にとっての半兵衛に当たる分身が居るはずだった。姿を見せないのは、此処が他者の精神の中であることとか、彼女の本体は時空を隔てた遥か彼方にいることとか、彼女の分身がいま『表』に出ていてこちらに来ることが叶わないとか、色んな要因があるのだろう。あるいはその全てかもしれなかったが。
 興味深そうに辺りを見渡しながらヒカゲが告げる。
「あなた方の世界はかなり理性的なのね。わたしとヒナタ―――ああ、わたしの妹―――の、世界はもっと混沌としていて礎となる大地の存在すらあやふやだったのに」
「あなたの見立てでは上空の門は何になりますか」
「そうね、あなた方の<力>を視覚化したものではないかしら。細部を知る由はないけれど」
 半兵衛の問いをさらりとかわして緩く髪をかきあげた。
 いきなり問い掛けては失礼だったかな、と少し反省した半兵衛の隣に総兵衛が腰掛ける。
 口を開いて、曰く。
「意識が散り散りになりそうだった時、誰かに腕を捕まれたように感じた。それがヒカゲだった。その後すぐに総兵衛は同じように中空を漂ってたお前を捕まえたんだ」
「妙な不安にかられて『狭間』に潜ったらあなた方が大きな波に飲まれかかっているのが見えたの。咄嗟に、見知った総兵衛を捕まえて―――不思議な光景だったわ。掴んだ途端に世界は混濁を止め、海と大地が形作られ、大地は木を備え、上空には全てを司るべき<門>が形成された」
 異国の伝承には『天地創造』という観念があるらしい。それを目の当たりにしているようだったと少女は深い親しみを込めて告げてくれるのだが、生憎と半兵衛も総兵衛も、その辺りの記憶が曖昧である。
「わたしはきっかけを与えただけ。あなた達はあなた達自身の意志で全てを取り戻した。誇っていいわ」
 と、言われても。
 何を誇るべきかもよく理解できていないのが正直な話だ。戸惑いも露に顔を見合わせる両名を前にしてヒカゲはくすくすと笑いを零した。
 導かれるように空を見上げた総兵衛がひい、ふう、みい、と指折り数えながらぽつりと感想をもらす。
「あの門………もしかして、半分ずつ、か?」
「そうだろう。何となく―――だが。東西南北を引き受けるのは私だろうな」
 そして、東西南北の間に位置する門は総兵衛の管轄となるのだ。
 現在開かれている門はふたつのみ。各自に対応しているとするならば、現状は即ちそれぞれが第一段階を解放するのに成功したと言うことになるのだろうか。果たしてそれが何を意味するのか、何にとって重要なのか、そもそも解放していいものなのかすら判断はつかないが。
「―――もしも名付くなら」
 北から順にひとつ飛ばしで半兵衛は門を指差していく。
「一の門は花羅、三の門は流霧、五の門は冷泉、七の門は雷樹」
「なら、総兵衛は」
 薄く笑いながら傍らに座した相方が同様に北東より順に門を指し示し。
「二の門は疾風、四の門は久遠、六の門は水瀬、八の門は芙蓉」
 ふたりの様子を興味深げに眺めていたヒカゲは、何処か気遣わしげな表情をした。
「以前、総兵衛には告げたけれど………その力のことは出来る限り誰にも話さない方がいいわ。ましてや名付くなど―――それ自体を否定したりはしないけれど、明確に『其処に在る』と認識された<力>であればあるほど、触れるに容易くなるでしょう?」
 先を知りたがる人間は多い。だから、そのような人々に見つからないためにも可能な限り力は目覚めさせない方が良いのだと彼女は面を伏せる。
 しかしそうしていたのも束の間、次に向き直った彼女はひどく真剣な眼差しを湛えていた。
「名残惜しいけれど―――あなた達は戻らなければ」
「戻る?」
「現実の世界へと。………いまふたり揃って此処にいるのなら、その間に『外』がどうなっているか考えたことはなくて?」
 微かに顔を見合わせて、互いの同意のもとに半兵衛が口を開いた。
「共に此処にいるのだから現実の肉体には何も宿っていない。虚無の状態か、もしくは―――第三の何者かが」
「肉体を支配している」
 総兵衛が後を引き継いだ。
 理解しているなら話が早いとヒカゲも頷いて。
「本来、わたしたちの中に眠る魂はひとつだけ。互いに別の世界に繋がりをもった結果として精神も魂もふたつに引き裂かれているの。だから、ふたり共が意識を失くしている間―――もしくは、統合された場合は―――全く異なる人格が姿を顕すわ」
 第三の人格がどんな性質を有しているかは本人たちですらすぐには把握できない。ましてや今回の半兵衛たちは突如急流に投げ込まれたようなものだったのだから、認識できている方がおかしい。それだけに、制御の取れていない正体も分からない『人格』が迂闊な真似を仕出かしてやしないかと不安に駆られるのだ。
「注意が必要よ。おそらくいまの『あなた』は問われれば全てに答える生き人形のようなもの」
「全て、とは」
「全て、よ。名を告げられた人物の未来を、これから辿るであろう道筋を、関わりあう運命を」
 途端―――妙な胸騒ぎを感じたのは。
 何も半兵衛に限ったことではないだろう。

「わたしたちは未来を見ることが宿業だもの」

 風ひとつないはずなのに銀色の髪がさらさらと揺れた。
 半兵衛は考え深げに顎に手を当てた。これまで周囲には自分たちと『同じ』人間は存在せず、この歳になって初めて『同じ』と感じられたのが彼女だった。滅多な邂逅ではなく、自分たちは事これに関しては恐ろしいぐらいに無知である。悠長に構えている場合ではないと知ってはいるが探究心が上回った。
 更なる問い掛けをしようとした―――刹那。
「………っ!」
 感じた怖気に素早く振り向いた。
 総兵衛が険しい顔つきで同じ方向を睨みつける。
 暗い海原の遥か遠く。
 目で見ることが叶わないほど遠い場所に―――瞬間、漆黒の闇が揺らめいた。
 ゆらゆらと波間を彷徨うその影は時折り姿の一部分のみを白く浮き上がらせながらも、基本的には漆黒で染められた身体で辺りを徘徊している。
 おぼろげに形作られた輪郭は明らかに人間のもの。
 そして、「顔」と思しき地点でぱっくりと。

 ―――三日月型に口を引き裂いた。

 背中を冷たい汗が伝う。自然、半身の肩を強く握り締めた。総兵衛もまた、肩に添えられた手に手を寄せて強く握り返してくる。
 打ち寄せる緊張と悪寒は共通のもの。
 眼前に佇む少女と似通った雰囲気でありながら、決して、好意的ではない視線。
 憎悪や嫉妬、侮蔑、拒絶、嘲笑、ありとあらゆる負の温床。剥き出しでぶつけられるあまりにも生々しい感情の数々に胃の腑が焼けるようだ。
 嫌になるぐらい強く予感させられる。
 嗚呼―――きっと。

 きっといつか。
 いつか、あの『男』が自分たちを。

「わたしが………あなた達に手を貸したのは」
 そっと染み入るような声でヒカゲが語る。
「無論、総兵衛を助けるためではあったけれど―――それ以前に、あの影がずっと傍に控えていたから」
 影はじっと、ずっと、彼らが『堕ちて』くるのを待っていた。
 その手に捕まえるのをいまかいまかと待ち構えていた。
 いずれ自分のものになるのなら『いま』手にしても何ら問題はあるまいと声高に主張していた。
 あまりにも利己的に、あまりにも断定的に主張するものだから恐ろしくなって思わず手を出した。本来は不可侵であるはずの領域に敢えて踏み込んだ。己の行動が相手の不興をかったかと思いきや、それすらも軽い嘲笑ですまされて恐ろしさと厭わしさが増した。
 ヒカゲがいる世界にはあの影はどうやっても訪れることが出来ない。いまは半兵衛と総兵衛の精神世界を中継点としているから互いに認識できるが、常は大きな時間と空間の断絶によって阻まれている。
 自分には逃げ道が残されているが半兵衛たちは直接に関わらざるを得ない。だから不安でならない。
 未だ自身の持つ力の使い道も、制御方法も、ほとんど知らぬに等しい彼らだからこそ。
「あくまでも勘だけど、あの影は限られた期間、限られた距離しか移動できないと思う―――不完全なのよ。救いがあるとしたらそこぐらいね」
 本来ならば願う時、願う場所へ、いつでも何処へでも『移動』できるはずなのだから。
 漸う身体を緊張から解放し、かろうじて半兵衛が問い掛ける。
「―――あの影も、我々と『同じ』なのでしょうか」
「ええ。間違いなく。そして」
 す、と白く細いたおやかな指でふたりを指差した。
「あなた達に出会うためにやって来る。いまも、むかしも―――これからも」
「………」
 しばしの沈黙に包まれる。
 ややもして気を取り直すかのように問いを発したのはヒカゲだった。
「そういえば、そもそもあなた達はどうしてこんなところに来る羽目になったのかしら? 普通であればこんなに深い酩酊状態になることはないはずよ」
「嗚呼、それは」
 確かにその通りだ。
 現実世界での自分たちは白拍子の気配や鼓動に惑わされて自身の呼吸を整えることすら難しくなっていた。故にかような事態に陥ったのだと分かる。同時に、いまひとつの確信も胸中に芽生えていた。
 情けないことに相手の精神領域へ引きずられてしまったのですよと笑いながら。
「いまとなれば―――彼女もまた我々の同族だったのでしょう。舞いの呼吸や間合いが完全に一致していたのですから」
「そう………けれど、それもまたおかしな話ね。あなた達はわたしと『同じ』ではあるけれど、それでも尚、違う存在なのよ。『同じ』中でもあなた達は異質だわ」
 普通はここまで明確に<力>を視覚化することはない。もっと混沌としているはずなのだ。自分が多くの例を見てきた訳ではないとしても、とヒカゲは断りを入れる。
「なのに完全な一致を見せたの? たとえ同族とはいえ所詮は血の繋がりも何もない赤の他人。幼い頃から一緒に育ったならまだしも急に現れた人間が『偶然』同じ呼吸法を習得しているの? それこそ有り得ないほどの『奇跡』だわ」
「うん。それは総兵衛たちも感じてる」
 濃紺の瞳の色を僅かに薄めて総兵衛がため息をついた。
 出会った時から華子は自分たちに挑むような縋るような視線を送っていた。出会いを拒否すれば策を弄して相対せざるを得ない状況を作り出した。華子曰くの「半兵衛様なら大丈夫と思いました」の言も、全ては『同じ』であるがための直感と考えられれば容易かったのだが―――。
「何を危惧しているのか指摘してあげましょうか」
 ヒカゲが視線を鋭くした。
「あなた達を此処へ送り込んだ人物は何者かに操られていたに過ぎない。舞いを教え込まれ、あなた達が酩酊の果てに此処へたどり着くよう仕向けるためのただの案内人。そして、その誰かの目的は」
「―――門を開くことにあったのかもしれない。けれどヒカゲ殿、こればかりは考えても詮方ないことです」
 十中八九、その『誰か』とは先ほどの黒い影だろうと確信を抱きつつ、敢えて言葉にするのはやめておいた。相手も無言の内に了承してか静かに微笑みを浮かべた。
 ふ、と上空を見上げて眩しげに目を細める。
「本当にもう行かなければ。あなた達の世界でも、わたしの世界でも、そろそろ夜が明ける頃合よ」
「もはや刻限ですか」
「―――ありがとう。世話になったな」
 ふたり揃って腰を上げると、現時点で唯一味方と思える同族に頭を下げた。
 何処か気恥ずかしそうにしながらヒカゲは「気にしないで」と苦笑する。
「わたしたちも以前、総兵衛に励まされたのだからお相子よ。いまのあなた達なら此処に追い落として来たという張本人にも負けることはないと思うけれど、………気をつけて」
 ヒカゲの手助けがあったとは言え、混沌に落ち込んでいた精神は復活を果たした。
 それをもって閂が外されたとするならば半兵衛か総兵衛、あるいは両名ともに何らかの変化が生じていてもおかしくはない。事実、現実世界に戻って再び華子と相対した際に、以前と同じような眩暈に襲われる可能性は低いだろうと本人たちも感じていた。
 世界が白く薄く儚く消え去っていく。
 遠ざかる景色の向こう側、真っ直ぐにこちらを見つめる少女と瞳が交錯した。声さえも既に遠い。
『どうか負けないで………自身が成すべきことに従い成すべきことを成しなさい。決して挫けずに』
「あなたも、どうか―――ご無事で」
 白かったはずの世界が覚醒前の闇に閉ざされていく。手を振る感覚すら遠くとも尚、互いに最後の挨拶をかわしていた。
 いつかまた―――いつかまた、と願いながら、いつまでも。




 目を開けてすぐの視界に入り込んだのは薄暗い木目の天井だった。世界は闇ではなく、目映い日の光でもない、薄青い暁に占められて。
 おずおずと布団の中に投げ出されていた腕を持ち上げてまじまじと見つめる。てのひらを開閉する。確かな感覚が甦る。ゆっくりと上体を起こせばさらりと首元から髪が流れ落ちて、ようやく半兵衛は自分が髪を結わえていないことを理解した。
 立ち上がり、閉ざされた障子を開け放つ。
 目を射る庭一面の白雪。雲間から覗く暁の月の光。地に描かれた木々の濃い影。
 深く息を吸い込んだ。静かに身体に何かが満ちてくる。脈打つ鼓動の強さを感じる。先日まで我が身を脅かしていた、同じ館内にいるであろう白拍子の存在も不思議と気にならなかった。おそらくそれは、ヒカゲの言を借りるなら。
『いまのあなた達なら、此処に追い落として来たという張本人にも負けることはない―――ってな』
 こっそりと響いた相方の言葉に少しだけ笑った。
 予想よりも衰えている腕に顔をしかめつつも澄んだ声音で誰よりも呼び慣れた名を呼んだ。
「―――佐助」
「これに」
 応えは待つこともなく与えられた。
 す、と廊下の曲がり角より姿を現した部下は深くこうべを垂れたまま跪く。月明かりの関係で表情まで窺い知ることは出来ないが、心配性な彼が何を考えていたのか分かるようで、また少し半兵衛は苦笑の色合いを強くした。
「あれからどれぐらい経つ」
「三日目の夜が明けた時分にございます」
「そうか………と、なると時間も限られてくる………」
 少しずつ、少しずつ、脳が現実の感覚を取り戻す。計算を始める。
 動けなかった間に城外の敵が策を整えてしまったのではと危ぶむが、同時に、佐助や茜がいたのだから最悪の事態は免れているだろうと信頼もしていた。
 屋敷を守護する壁ごしに昇る太陽の気配を察しながら指示を下す。
「佐助、いますぐ茜に連絡を。華子殿も疾うに眠りより目覚めている頃合であろう。私は城内の警備配置を改める。必要書類を部屋まで頼む。十兵衛殿とも話をしたいところだが―――華子殿の事情を窺うのが先決だな」
「御意」
 真っ直ぐ空を見詰めていた視線を横へと向ければ部下は変わらぬ姿勢でそこに座していた。徐々に射し込んできた光が辺りをやわらかく照らし出せども内面までは推し量る術がない。
 ………それでも。
 佐助が、いや、佐助と茜が何を感じていたかぐらいは分かる。口元に刻まれるのは変わらぬ苦笑。
「すまなかった」
「何を謝罪されるのです」
「要らぬ心配をかけた。それに―――あのまま大人しく眠り続けることも私には出来なかったからな」
「………」
「目覚めたことは、お主らが新しい人生を見い出す機会を奪ったに等しい。謝罪ぐらいさせてくれ」
 二度と目覚めないのが明らかな主であれば幾らでも見捨てることが出来たろうに。
 だが、佐助も茜も、突如意識を失った主を無碍に捨て置くことは出来ない性格だ。だから今後はせめてそうなってしまう前に「自由に生きろ」と言い残せるようにはしておきたい。
 聊かの躊躇もなく言い切る半兵衛に不満げな瞳を佐助は注いだ。
 久方ぶりに見る部下の強い瞳に知らず嬉しくなる。目にする何もかもが心を躍らせた。変わらないはずの世界が一夜にして塗り替えられたような、表面は同じなのに内側から滲み出る色彩が異なるような高揚感。
 あるいは。
 変わったのは自分なのか。
「恐れながら―――あなた様が望もうと望むまいと、目覚めずとも、斃れるとも、最期まで付き従うのが我らの意志です」
「………ありがとう」
 それでいいのか、と半兵衛や総兵衛が首を傾げたとて。
 それでいいのだ、と本人達が主張するのだから。
 いつだって自分たちは礼を口にするぐらいしか芸がない。それこそをすまなく感じても。
 命を実行すべく立ち去ろうとした影についでのように問い掛けた。
「そういえば、佐助」
「はい」
「私が眠っている間―――何方か御出でになられたか? 私は………本当に『眠って』いたか?」
 背を向けていた佐助はほんの僅かな首の動きで振り返ると、はい、と頷いた。
「ずっと、昏々と、眠り続けていらっしゃいました。一言も発することなく―――見舞いには十兵衛殿や秀長殿、小六殿の他に………秀吉公も」
「秀吉殿が?」
 最後に告げられた名前だけ予想外で半兵衛は目を見開いた。
 白拍子が都を訪れてより秀吉にしてみればさぞや軍師が邪魔で仕方なかったろうに、まさか見舞ってくれていたとは。やはりあの方は基本的にお人好しなのだなと、自身や華子が倒れるまで舞いに興じていた場を見られていたことを知らない半兵衛は暢気に微笑んだ。
「そう、か………秀吉殿が………」
 まだ完全に嫌われた訳ではないらしい。目覚めてから漸く本当の意味で半兵衛は安堵の息をついた。
 色のない瞳でその様を見つめていた佐助が踵を返す。
「失礼致します」
「頼んだぞ」
 空気に溶け込むように姿を消す部下を視界の端に留めたまま、再度深く息を吸い込む。
 真冬にしては穏やかな空気が彼の周囲を取り巻いていた。




 年の瀬にしてはあたたかな日が差し込む早朝。
 この二日ほど降り続いた雪も形を潜めて目映い陽光が山の端に姿を覗かせている。足元に踏みしめた新雪は未だやわらかく、歩く度に明確な流浪の軌跡を刻み込んだ。故意に硬く凝り固まった日陰の雪を踏みつければ更に奥底に眠っていた霜柱が壊れる音が微かに響く。
 かじかむてのひらに息をかけてすり合わせながら、さて、どうしたらよいのかと朝っぱらから秀吉は頭を悩ませていた。
 ―――三日。
 三日、だ。
 半兵衛と華子が共に眠りに落ちてから。
 疲れが極限に達していたのか、はたまた他の要因があってのことか、彼らは揃いも揃って眠り続け公式の場に姿を現せなくなった。華子の舞いが見られないとあって諸将の士気は下がる一方だが儚げな美人を無理矢理に叩き起こす訳にも行かない。でなくとも、見舞おうとした連中は全て茜に門前払いを食らわされている。だから秀吉でさえ華子が正しくは『どんな』状況にあるのかを知らない。
 一方の半兵衛も―――例のよく分からない妄言を振りまいた後は昏々と眠り込んで呼びかけても起きなかったらしい。らしい、と言うのはつまり、どうしても秀吉自身があれ以降、半兵衛のもとを訪れるだけの勇気が出なかったためなのだが。全て弟から伝え聞いた話である。
 いまでもまだ、あの時の半兵衛は夢だったのではないかと思う。自分は彼の中に流れる血に気付いている。その無意識が作用した結果、あのような光景を見せたのではないかと。
(………馬鹿だな、俺も)
 唇に薄く自嘲の笑みを刷く。
 あれが幻でないことぐらい、己が一番よく知っているはずなのに。
 降りしきる雪の中、気楽に町を出歩くことも出来ず、自然閉じ込められることになった室内で否が応にもこころは自省へと向けられた。憑き物が落ちたかの如く思考が鮮明だった。目覚めなくてもいい、面と向かって何か声をかけるべきではと思い立っては座り込み、廊下を辿っては引き返し、鋭い彼の部下の視線を思い出す毎に舌打ちして、結局何もせぬまま三日が経過してしまった。
 折りしも過去の全てを払拭してくれそうな晴天が顔を覗かせている。今日こそは、の決意のもと、秀吉は早々に自室を出たのだ。
 いつもの廊下周りではなく、庭を経由して歩を運んでいた彼は突如として歩を止めた。

 ―――息、が。
 止まるかと思った。

 数日前、命の取り消しを請うた彼の願いを断った、あの日の再現のように。
 前方の井戸の傍らに立つ人影。
 日が昇りきる直前にだけ許された厳格な静謐に溶け込むように纏った白い内掛け、俯き加減の青白い横顔、結ばずに流したままの長い髪。
 汲み上げた桶を両の手で抱え込んで水面をじっと見つめて身動きひとつしない。
 急に彼は手桶を傾ける。先の光景が察せられた秀吉は思わず飛び出した。そこまではいつかと同じ、いつかの光景。
 ただ、違ったのは。

「おい―――総兵衛!」

 慌てて掴んだ相手と、その腕が未だぬくもりを有していたこと。
 濃紺の瞳をまたたかせた青年はしばし呆気にとられた表情を浮かべていたが、やがてゆったりと凍てつく氷を融かすような笑みを浮かべた。
「嗚呼、秀吉殿。おはようございます。お久しぶりですね」
「………そうだな。久しぶり、だな」
 総兵衛と話したのがいつ以来になるか思い出そうとして、月単位で遡らなければならないと気付き記憶の検索を放棄した。掴んだままだった手を放す。未だ桶を手にした体勢で軽い鈴の音のような笑い声を彼は響かせる。
 不思議な感覚だった。
 そこにいるのが半兵衛ではない点だけを除けば、まるで全てが数日前に戻ったかのような。
 眩暈すら覚え始めた秀吉には気付かずに、あるいは気付いていながら尚更に、暢気な口調と態度で総兵衛はさらりと謝罪の言葉を口にした。
「そういえば―――申し訳ございませんでした、秀吉殿」
「何がだ」
 謝罪してもらう謂れはない。逆なら有り得ても。
「見舞いにいらして下さったのでしょう? ずっと寝入ったままでご挨拶すら出来ず失礼致しました」
「え?」
「流石にあれだけ眠ればもう大丈夫ですけどね。久しぶりに体力を消耗したのがかなり堪えたようです」
「………」
 どうとも返事のしようがなくて秀吉はただ眉をひそめた。
 僅かな思い付きが急速に形を成して確信へ変じていく。もしかしたら、もしかして、もしかしなくても。

 彼らは自身の語った内容を覚えていない―――何ひとつ。
 秀吉に発した言の葉のひとひらも、彼らの内には残っていない。

 真実を告げなかったのは忠実なはずの例の部下の独断か。果たしてその事実は幸なのか不幸なのか迷うところだ。
「―――総兵衛」
「はい」
 呼びかけに応じる彼はいつもの彼だ。
 あの時のような、虚ろな魂と透明に過ぎる瞳をした『彼』ではない。
 いきなり此処で「何も覚えていないのか」と問い掛けるのは要らぬ悶着を引き起こしそうだったし、何より、知らないでいられるならその方がどれほど良いか分からなかった。先のことなど知らない方がいいに決まっている。無論、未来を読めれば様々な局面で役立てられるのだろうが―――いまは、それよりも。

「奉納舞への出席………取り止めるか?」

 かつて。
 かほども思い浮かばなかった提言を漸く口にした。
 控えめな口調での提案に総兵衛は戸惑ったようだった。両の手を遅ればせながら桶から外すと、空いたその腕で困り果てたように左の頬をかく。
「どうしたんです、急に。小一郎殿たちに何か言われたのですか?」
「確かに言われたな、色々と。けどまあ、それはもういいんだ」
 実際、『言われた』どころじゃないぐらいに言われたと言うか責められたと言うか、面と向かって放たれた言葉の数々よりも、いまにして思えば必死になってこちらを見つめていた彼らの真っ直ぐな瞳こそが痛かった。
 総兵衛が小首を傾げる。そうすると彼の面はやけに幼く感じられて。
「いいとはとても思えませぬが。総兵衛が―――半兵衛が倒れたからですか。先ほども申し上げましたように疾うに問題ない状態に復帰しております故ご心配には及ばぬかと」
「だが」
「秀吉殿」
 ここに来て明らかな苦笑を総兵衛は浮かべる。そうすると信頼と親愛が滲み出た瞳が半兵衛に酷似して、受ける印象は違えどもやはり『彼ら』は双子なのだと強く感じさせた。
 けれど、告げる言葉は双子の兄よりも遥かに直截で。

「感じているのは罪悪感ですか。ならば、そのような感情など無用の長物ですよ」
「………!」

 だってそうでしょう、と呆気なく。
「あなた様も仰られたように将軍の勅命は果たされねばなりませぬ。唯一断り得たのは命を下されたあの場に限ってのこと。既に日を過ぎたいまにおいては最早誰であろうと変更することは叶いませぬ」
 将軍や総兵衛自身に不幸があれば別ですけどね、とさり気なく不吉なことを口にしながら。
 只管に真実のみを見つめているような視線を和らげてそっと秀吉に呼びかける。
「お願いですから………一度下した命について悔やまないで下さい。反省や自戒を用いるのは他の方に対してだけでいい。総兵衛たちに下した命のことで悩まないで下さい。あなたは何も悪くないのですから」
 何も悪くないことはないだろう。
 事実彼らは命に従って舞いにのめり込んだ挙句、意識を失い、更には。
 ―――原因を作ったのは確かに己だのに。
 結果として多くの者の死を招いたとしても、部下を見殺しにすることになっても、振り返らずに振り向かずに前を見て下さい。例えそれで誰もがあなたを恨もうと憎もうと謗ろうと、あなた自身が拒絶しない限り変わらずお慕い申し上げますからと付け足して。
 ふ、と笑みを浮かべる。
「秀吉殿、ほら、眉間にしわなんか寄せないで下さいよ―――勿論、総兵衛も半兵衛も、傷つけられるのは嫌ですし、それなりの体裁や誇りも有しています。けれど、積み上げた全てをかなぐり捨ててでも守りたいひとつが常に存在してるんです」
 濃紺の瞳が瞬間的に薄闇の瞳と色を重ねる。

「それはあなたです、と告げれば、あなたは笑って下さいますか」

 怒った顔や困った顔よりも笑った顔の方がいいに決まっているでしょう、と。
 幼い弟妹を前にした時のような、参ったな、との色を滲ませて。
「………総兵衛」
「はい」
「お前、馬鹿だな」
「はい?」
 一瞬動きを止めて、それからすぐに「馬鹿って言われるのも久しぶりな気がします」、と微笑と共に報告してくる相手の姿にゆるゆると頬に苦笑を刻み込む。
 あのままの軍師では使い物にならない、二度と笑いかけてくれないのは困る、そう感じていたはずなのに、密かに彼が未来を語り続ける生き人形と化すことを心の何処かで望んでいたらしいと気付いての自嘲。これではあの黒衣の部下と同じだ。いや、あの男は純粋に主君の身を案じるが故の想いだったのだから己のは畜生にも劣る外道な考えだ。
 けれどこうして『彼ら』との再会を果たしたいまとなれば、魂の回帰を願った己は間違っていなかったのだと自信を持てる。内に眠っていた暗い望みの通り軍師が途切れ途切れに未来を語るだけの世界では何も得られない。例え何かを手に出来たとして、そんなものにどれほどの価値があるのだろう。
「俺が―――どうしようもなくなったら見捨てろよ」
「何故」
「道連れになっちまう」
「そうですね」
 総兵衛は心底嬉しそうに笑った。

「道連れになれたら一番いいですね」

 嗚呼―――全くもって、本当に。
 真顔でこういうことを言う奴らだからこそ「いっそ未来を語るだけでいろ」と断じることが出来ないのだ。秀吉が本気でそう願ったならば「仰せのままに」の言葉と共に永久に眠り続けそうな彼らだからこそ。
 あの時に語られた言葉に対する感想はいましばらく記憶の片隅に留めおくことに決めた。




 珍しくも穏やかな冬晴れとなった。
 町行く人々が久方ぶりに安堵の笑みを浮かべながら挨拶を交わすように、城内でも妙に和やかな空気が流れていた。ここ数日吹き荒れた雪が何かをごっそりと洗い流したかの如く清浄な気配が辺りを満たす。兵士達は互いに誘い合って随分と行っていなかった鍛錬に精を出し、武器の手入れを行い、見回りや隊列の確認を行う。
 まさしくそれは白拍子が訪れるより前の『日常』の光景に相違なかった。
 負けることがないとはつまりこの状態を示しているのだろうかと半兵衛は首を捻る。
 場を支配していた華子の気配が拭い去られた結果、「かつての日常」が戻り来たのだと判断はついても、拭い去ったのが己とはとても思えない。華子が自主的に支配の意を失くしたと見る方がまだしっくり来る。何せ、未だ彼女自身に注がれる周囲の好奇と好意の眼差しには翳りもないのだから。
 予想通り華子も半兵衛と時を違えずして意識を取り戻していた。開口一番、彼女は「よかった」と漏らしたらしい。目覚めることが出来てよかったのか、はたまた別の要因をもってよかったと評したのかは分からないが、それはいまから確かめればいいことだ。
 障子を開け放ち、明るい陽光を室内に取り入れながら半兵衛はゆっくりと茶を啜った。眼前の人物は先ほどから石のように動こうともしない。
 流石にこれでは埒があかないとため息ついて。
「………華子殿」
 諦めて呼びかけた。
 自分の後ろには佐助が、彼女の後ろには茜が控えている。尋問しているような位置関係が彼女を緊張させているのかもしれないと察しても、無駄に心配させてしまった部下二名の同席を今回ばかりは断りかねた。
 半兵衛の呼びかけから更にかなりの間を置いたのち、おずおずと華子は視線を上向けて弱々しい笑みを閃かせた。
「―――よかった………」
 細々と搾り出すような声で。
「よかった………これで、もう―――わたくしの役目は………終わりました………」
「役目、ですか」
 やはりと思いつつ先を促せば何処か晴れ晴れとした表情で華子は頷いた。
「あなた様の前で舞いを舞うこと。あなた様と共に舞いを舞うこと。それだけがわたくしに課せられた使命でございました」
 正月の席での奉納舞が残されているけれど任務はもう完了しているのだと彼女は告白する。
 僅かな憂いを含んだ黒瞳で半兵衛を見つめた。
「わたくしはあなた様のしるべ、導き手。ただのきっかけに過ぎませぬ」
「どのような意味があったと申される」
「意味など。わたくしが知るはずもございませぬ。ただ、あの方は―――わたくしに舞いを教え込んだあの方は、ただ、告げたのです」
 刹那。

『―――舞いを舞え、華子。俺のために。いずれ出会うあの男のために』

 ………知るはずもない低い声が聴こえた気がして、半兵衛は僅かにかぶりを振った。
「いまは分からずとも出会えば分かる、誰のことを意味していたのかすぐにでも分かる、と仰られました。事実わたくしはあなた様のお姿を拝見した瞬間に、嗚呼、あの方が仰っていたのはこの方しか有り得ないと察したのですから」
「違ったなら何とするつもりだったのです」
 心にもない科白を半兵衛は紡いだ。
 違えるなど万にひとつもない。自分が華子を見た瞬間に感じた違和感をきっと彼女も感じていたのだろうから。理性ではなく本能が訴えかける感覚は抗い難い。
「違うことなど有り得ませぬ。出会うは宿業、導くは定め、あなた様とてわかっておいでのはず」
「ならば抗おうとするもまた人の性。早々思い通りにはならない」
「いいえ、いいえ。あの方はそのような―――人という領域を超えた処におられる方なのです。全てを見通していらっしゃる。何もかも、全てを。この後に起こり得る全ての事象を掌握していらっしゃる。わたくし共はあの方のたなごころの上で舞う哀れな巫子に過ぎぬのです」
 半兵衛は少し眉を顰めた。華子の言に気圧されたからではない。傾倒とも崇拝とも畏怖ともつかぬ感情を寄せる様は巫子と呼ぶに差し支えなかったが、より気になったのは別の点である。
『人という領域を超えたところ―――全てを見通す。先を知る。―――未来を』
 総兵衛がひっそりと呟きを零した。
 華子が語る人物は嫌でもヒカゲとの会話を思い出させる。あの影は間違いなく我々と同じもの。
 そして。

 ―――『わたしたちは未来を見ることが宿業だもの』。

 知らず、唇を噛み締めた。
 有り難くないことに予想が粗方的中してしまった。華子は何者かが差し向けた刺客であり、目的は将軍でも秀吉でもなく、他でもない自分自身なのだと。信じたくはなかったが彼女の言葉を聞く限りはそうなのだろう。
 と、すれば自分の―――自分たちの所為で秀吉にあんな思いをさせてしまったのか。他の誰が彼を傷つけようとも己だけは彼に余計な負担などかけたくはなかったのに。秀吉の影のような存在でいたかった、なのに、その影こそが本体を追い詰めてしまっては本末転倒もいいところだ。
 目的や意図は不明だが、今後もあの影は手出しをしてくるのかもしれない。その時、秀吉を巻き込まずにいられるのだろうか。迷惑をかけるのが明らかであるなら身を隠すべきではないのか。進軍の助言ならこの屋敷に留まらずとも叶うこと。
(だが………結論を出すにはまだ早い)
 何とか自身を言い包めると改めて相手に向き直った。聞けることの全てを聞かねばならない。
「華子殿」
 心なしかやつれた白拍子は何処か陶酔したような、怯えたような、諦めたような、複雑な色の瞳を半兵衛へと向けた。
「あなたは―――その者の名をご存知なのですか」
「………存じております」
「教えて頂けますか」
 細かく、華子の身体が震えた。奥底に眠る記憶が目を覚ましたのか、急速に瞳の中に怯えの色を強めながら、己が身を両の腕で抱きしめて。青褪めた表情で俯く。溺れかけた人間がそうするように幾度も幾度も口を開閉させて。
 告げねばならない。
 ここでその者の名を半兵衛に告げることもまた、彼女に下された『命令』のひとつなのだろう。何故そこまで相手の言い成りになるのかと疑問はつきないが、これまでの態度を見ていれば分からないでもなかった。おそらく彼女が男性に対して恐怖を抱くのもその者の影響故なのだろう。
 絶対的な恐怖の象徴。自身を支配する存在。
 逆らえるはずがない。おそらくは、その者に仕える巫子として幼い頃から躾けられて来たのだろうから。
 掠れた声で、色をなくした唇で、いずれ半兵衛と相対することになるであろう者の名を形作る。
 ―――その、名は。

「栗、原、不動………それが、あの方の―――ご尊名でございます」

 言い終えるや否や華子はその場に崩れ落ちた。

 

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