幾つかの光景が行き過ぎる。
 常に中心にいるのは黒い髪をした黒衣の男。三日月形に裂けた笑み、昏い瞳。

 童女に舞いを教える―――ああ、あれは白拍子だ。
 都に住む青年に力を与える―――そう、彼とは間もなく会うだろう。
 一国の軍師に存在を示唆する―――いや、彼に会うのはずっと先だ。

 場を転じ、時を変じ、闇夜に覆われた城内―――天守閣付近において向かい合う影ふたつ。
 黒衣の男と対峙する青年。それは己か、己の双子の兄弟かは分からねど。
 男は言った。「国家安寧の理論は説けたのか」、と。
 青年は応えた。「説くまでもなくあの方は平和を欲している」、と。
 ならば既に用済みと男は腰の刀を抜き放つ。同時にこちらも刀を構える。そうとも、お前だけは許さない。自分から『半身』を奪ったお前だけは決して許しはしないと呟きながら。
 交わす剣戟が漆黒の闇夜に軌跡を描く。
 舞いを舞うかの如く刀を打ち交わす。

 嗚呼―――きっと。

 きっといつか。
 いつか、あの『男』が自分たちを。

 


<陸> 闇舞


 

「―――大丈夫ですか? しっかりしてください」
 遠くから響いてきた声にはっと我に返る。幾度か瞬きを繰り返せば、ほんの目と鼻の先で茜が華子を介抱していた。背をさすり、額に手をやり、口元で湯飲みを傾ける。
 膝の上で強く握り締められた己が手を半兵衛はじっと見詰める。
 いまのは。
(………白昼夢?)
 背後の部下に気取られてはいまいかと危ぶみながら眉間に皺を寄せる。
 華子から聞かされた名前。それだけで脳裏を過ぎった意味を成さない光景の数々。原因も理由も定かでないのに不吉な予感だけは耐えることがない。瞳を閉じても男の顔かたちは思い描けない。なのに「あいつだ」と断言できる不思議な確信。
 こころの何処かで忌避し続けながらも最早認めるしか術がない。

『いつか、あの男と会うのだろう………そう、遠くない未来に』

 相方の呟きに頷き返して。
 青褪めた顔の華子がようやく目を開く。自らを支えていた茜にすまなそうに頭をさげると、静かに座り直した。
 再び場が沈黙に包まれる。
 これでは事の元凶と思しき人物の名を聞き出せただけで最初の状況に逆戻りだ。半兵衛はまたしてもため息をひとつつくと、先に進むための口火を切った。
「―――栗原、不動」
 ぴくり、と。
 名を口にしただけで目に見えて華子が怯えるのが分かった。
「苗字を持つということは、武家か名家の出なのでしょうね」
 生まれながらに苗字を持つ者は少なく、特権階級のみに許されている印象が強い。
 しかし、それを逆手にとっての偽りの字かもしれない。少なからず感じ取れるのは、現実世界での権力はなくとも裏の世界では全てを牛耳ることが出来ると宣言する嘲りと傲慢と確かな不服。
「あなたが、その人物とどうして出会ったのか教えて頂けますか」
 僅かに唇を震わせて、華子は戸惑いを深くする。
 告げること自体が禁忌なのではなく、偏に彼女が「不動」を恐れるが故に口に乗せることが躊躇われるのだろう。
「知って―――如何、なさるのですか」
「如何、ということもありませぬが。ただ、思うに………あなたは先ほど、私の前で舞うこと、私と共に舞うことこそが使命と仰せられた。ならば、どのような出会いの果てに此処に至ったかを告げることも復た、かの人物の思惑に添うことになりませぬか」
「―――」
 やがて。
 観念したかのように華子はぽつぽつと語り始めた。己が過去を。己が目的を。

『華子』というのは彼女の字(あざな)ではない。本名は『あやめ』と言い、京に程近い山間の貧しい村で生まれ育った。年貢の取り立てに苦しみ、天候に左右される穀物に嘆く親の姿を見ながら幼馴染たちと共に平凡な日常を送っていた。
 容姿以外は取り立てた特技も何もなかった彼女に、ある時、転機が訪れる。
 ―――ひとりの男が村に立ち寄ったのだ。
 黒い衣服に身を包み陰の気配を纏わせた男は単なる旅人にも見えたし、菅笠と錫杖を手にした僧にも思われた。
 畦道に突っ立っていたあやめを見て男は笑う。
『なるほど。こんなところにも居たか』
 その頃、あやめの齢は五つにも満たなかったろう。ただ、幼いながらも不思議な予感があった。
 自分はこの『男』を知っている。
 いや、『男』は知らないが、『男』に通じる『何か』を自分は知っている。遥か過去より続く『連なり』を己は知っている。
 漆黒の瞳を童女に注ぎ込んだまま感情のない声で淡々と告げる。
『お前では足りない。せいぜいが露払い―――だが自覚を与えるための導き手には成り得よう』
 腕が伸ばされる。掴め、と言われる前にあやめはその手を握り返していた。
 男がうっそりと笑って。
 そうだ、それでいい。お前は俺には逆らえない。俺はお前よりも『上』だからだ、お前を支配できるからだ、お前の運命も、未来さえも変えてしまえるからだと嘲って。

『―――舞いを舞え、華子。俺のために。いずれ出会うあの男のために』

 わたしは『あやめ』であって『華子』ではない。
 主張するはずの声は震えて音にすることが叶わなかった。
 引きずられ、村から離れ、山へと入り込む後ろ姿にただ従うしか出来なくて。不思議なことにその間、村人たちに見咎められることはなかった。
 山に入ってからのことはよく覚えていない。
 ただ、舞いの基礎を教え込まれたのだろうことは想像に難くない。
 村へ戻った頃は優に十日は過ぎ去っていただろう。
 行方不明になっていた娘がふらふらと山から舞い戻った時に両親は泣いて喜んでくれた。幼馴染には「もう何処へも行かないでくれよ」と抱きしめられた。
 けれど、もう、その時には―――。

「もう………逃れられなかったのです」
 白いてのひらをきつく、強く握り締めて華子は顔を俯ける。
 遠い記憶から逃げるように瞳を硬く閉じ、苦行に耐えるように唇を噛み締めて。
「帰って来た私は、扇を握り締め、暇さえあれば舞いに興じる者に成り果てていました。この子は山神に祟られたのだ、魂を奪われてしまったのだと―――父も母も嘆きました。けれど、私自身は何ひとつ不幸を感じなかった。舞いを舞うことこそが己が天命と既に悟っていたのです」
 その、『悟り』が。
 男によって植え付けられたものなのか、自発的に芽生えたものなのかは別として。
 思い出そうとしても甦られない数日間の山篭りにおいてどんな経験をしたのかなど知る術もない。けれど、未だ寄る辺ない幼い身で行きずりの男に連れられて、あかりひとつ望めない山中に置き去りにされることがどれほどの辛苦を彼女に及ぼしたのかは想像に難くなかった。

 ―――此処から出してやろう。舞いを覚えたら。
 ―――村へ戻してやろう。舞いを舞えたなら。
 ―――親や幼馴染に会わせてやろう。舞いに全てを捧げるなら。

 囁かれる言の葉の数々に只管に従ったとて誰が責められるだろう。それはあくまでも予想でしかなかったが、似た形での『暗示』は行われたのだと半兵衛は確信していた。

『あやめ』ならぬ『華子』の舞いへの傾倒ぶりは最初こそ忌避されていた。だが、徐々に、新年祭において彼女が舞えば豊作、雨乞いにおいて彼女が舞えばその日の内に雨が降る、そんなことが続けば村人たちの態度も変わってくるものだ。
 これぞ当代一の巫子と騒ぐ周囲の人間はあやめにとって煩わしいものでしかなかった。おまけに、成長するに従って男連中の目つきも変わってきた。舐めつけるような、愛でるような視線は恐怖の対象でしかなくて、舞えば舞うほど好色な輩の興を誘うことは分かっていたから、いっそ止めてしまおうと何度考えたかも知れない。
 だが、止めることは出来ない。舞いを舞わないでいると数日もしない内にひどい焦燥と頭痛に襲われて居てもたってもいられなくなってしまうのだ。
 何より―――あの『男』が恐ろしかった。
 あの『男』は、繰り返しあやめの元を訪れた。
 誰もいない時を見計らい、舞いを捨てようとするごとに都合よく。
『腕が上達したか見せてもらおうか?』
 三日月形の笑みを口元に刻み込んで先を促す。
 村では舞いたくないと告げればかつてと同じ山間まで連れ込まれた。此処だけは許してくれと泣いて頼んでも、満足できる舞いを披露したらすぐにでも帰してやるの一点張り。そして、そんな時ばかり何故か上手く踊ることが出来なくて帰る日がずれ込んでしまうのだ。村人たちは、彼女が定期的に姿を消すのは山神に気に入られているからだろうと頓着しなかった。
 仕方ないのだろうか―――自分以外の前に『男』が姿を現したことはない。己を惑わす存在が居ると訴えたところで、それぞまさしく山神の遣いに違いあるまいと誤解を深めるのみ。
 誰も助けてくれない。
 誰も理解してくれない。
 己は、自発的に山に篭もっているのではない。『男』に連れ出されているだけだ。
 なのに―――自らの発言は常に巫子の託宣として処理されてしまう。
『何故………何故に、私に舞いを強いるのですか』
『適役がお前だからだ』
 深い闇を従えた山の中、清流の傍、大岩に腰を落ち着けて男は笑う。世に生きるもの全てを嘲っているような口調がこころを凍てつかせる。
『お前の役目は舞いを舞うこと。いずれ出会う者を導くこと。素知らぬ顔で眠りに伏したままの麒麟を呼び覚ますことだ』
『いずれ………?』
『いまは分からずとも出会えば分かる。誰のことを示していたのかすぐにでも、な』
『すぐ―――』
『男は、天下に覇を唱える者に仕えている』
 言いながら男は笑った。
 毎年、決まった時期に訪れる男の存在を恐れているのか、焦がれているのか、その頃にはもう区別がつかなくなっていた。
 男が立ち去った日には大いなる安堵と共に不安を覚え、訪れた日には恐怖と共に喜びを得る。
 その度に揺れ動く精神はひどく不安定で日常生活さえまともに営めなかった。巫子として祀られるようになったおかげで家族共に衣食住には事欠かなくとも、こころの平穏だけは望むべくもなく。
 畏怖と好奇と猜疑とに晒された彼女に変わらぬ態度を貫いてくれたのは両親と―――幼馴染だけで。
 成人の儀を迎える時になって、彼は告げた。
『此処から出て行かないか?』
 巫子としてしか見ない村など出て行こう。祀るための道具としてしか扱わない奴らなど捨ててしまえ。お前は俺が守る、誰に逆らっても、神に憎まれてもいい、必ず守るから。追っ手がかかったとてそれが何ほどのものか。このまま一生を神に捧げて生きるだけでいいのかと。
 ………震えるほどに嬉しかった。
 嗚呼、この者とであれば半端に漂うばかりの己でも。
『ひと』として生きていける―――そう、思ったから。
 両親にのみ別れを告げて手に手をとって旅立った。追っ手に怯えながらもひっそりとした山間に居を構え、細々と命を繋いで、誰にも知られぬように、悟られぬように。
 精神的に追い詰められることがなくなった。このまま『普通』の人生を送れると信じることが出来た。
 ―――信じて、いたのだ。
 再び。
 あの男が訪れるまでは………。




 湯飲みに注がれた白湯はぬくもりを失って久しい。障子の合間から差し込む日の光に僅かに目を細めながら半兵衛は微かなため息をついた。眼前に座す女性はぽつぽつと身の上語りをしながらも視線をこちらに向ける気配はない。
 どうにも居心地悪く感じるのは、憤りが収まらないのは、話の中に登場する男の身勝手さ故だろう。
 同時に、己の与り知らぬところで企まれていたらしい計画の数々に寒気がしてくる。
 認めたくはないが―――『男』が示した相手とは自分たちのことだろう。
 つまり。
 真実、華子は人身御供だったのだ。
 いずれ出会うだろう半兵衛と総兵衛に道を示すためだけに作られた操り人形。
 しかし、目的が分からない。自分たちと彼女の齢はさして離れていない。華子が舞いを教え込まれた頃の己と言えば『総兵衛』の存在を明確に捉えたのがせいぜいで、『きつねつき』と謗られて城内に閉じ込められているに等しかった。自主的に脱走を繰り返していたとは言え、あの頃に出会った存在など高が知れている。
 なのに、『男』は何処で半兵衛を見知ったと言うのだろう。
「いつもと………変わらぬ、時期に」
 途切れがちな声と言葉で華子が先を続ける。
「あの方はまた………わたくし共の前に、現れました。………わたくしは、逃げる気力すらわかず………あの人の、見ている前で、おめおめ、とっ………」

 必死になって引きとめようとする良人の声を耳に捕らえながら。
 操られたかの如く、捨て切れなかった扇を手に、月明かりと共に訪れた男に付き従った。
『腕が上達したか見せてもらおうか?』
 いつものように、いつもの如く、いつもの言葉。
 命令どおりに舞いに興じることはこの上もない悦びを与えた。
 一心不乱に踊っている間だけは何も考えずに済む。とり憑かれた己が姿も、良人を悲しませていることも、嘲りを含めて見つめてくる眼前の男も意識する必要はない。たとえ舞い終えた後にこれ以上ない後悔の波が押し寄せるとも、その間だけは天上の甘露をその身で受くる如く。
 男が紡ぐ言葉は自身にとって神の御言葉に等しかった。
 ―――何故ならば。

「あの方は………ついに、ひとつも、歳をとらなかった」
「ひとつも?」
「幼少の砌より―――いまに至るまで、ひとつも、欠片も、歳を召したようには見えなっ………っ」
 華子が震える。
 半兵衛は瞳の色を険しくする。
 それは、もしかしなくともヒカゲの言葉通りではないのか。自分たちとその男の間に目に見えない繋がりがあると考えるのは腹立たしいが、確かに、目の前の白拍子にも流れているだろう血に因らない一族の。
 本来ならば。

 ―――「願う時、願う場所へ、いつでも何処へでも『移動』できる」力が。

 何処へ逃げようとも男は現れた。半年ごとに場所を変えようとも、誰も知らぬ僻地へ向かおうとも、時期が来れば必ず華子の前に男は現れた。
 そして命じるのだ。『舞いを舞え』、と。

 ある時、いつものように山中へ連れ出しておきながら男はずっと空を見上げていた。
 傍らで舞い続ける彼女の存在など微塵も感じていないかのように、じっと、静かに、空を。
 怪しんだ華子が舞いを止めようとも珍しく咎められることもなく。
 かつては十以上も年上に見え、いまは同年代にしか感じられない外見をした男は低く笑う。
『俺が憎いか、華子』
 何を、今更。
 けれど。
 憎むだけの勇気が彼女にあるはずもなかった。
『憎めども―――お前は最早常の世界には戻れぬ。お前は舞い続ける。一度死なねば治るまいよ』
 座していた岩より飛び降りて、錫杖を突きつけて、最後の託宣を下す。
『告げよ、華子。伝えよ、巫子に。汝を示すは<華>、<華>が散りし後に至るは<月>と』
 ぱっくりと三日月形に裂けた口元を晒して。

『地を這う獣に喩えられし目覚めた麒麟に告げよ。汝が崇めるべきはただひとり。我に仕えるは業。従うは宿命。違えること能わずとな………!』




「………」
 しばし。
 言葉を発する者は誰もいなかった。天にかかる太陽は傾きを増し地に描かれた影は白雪の上に色濃く浮かび上がる。
 華子を介して告げられた言葉は妙に生々しかった。まるで、いましがた当人によって耳元で囁かれたかのように言葉の強さも、語調さえも胸に浮かんでくるのは何故なのか。
 時間を超えるのか。
 ………言葉でさえも。
(華、と―――月)
『地を這う獣―――』
(きつね、か)
『―――麒麟』
(と、喩えられたこともある………)
 その比喩を用いられたのは稲葉山城を乗っ取った後だとしても。
「以来―――あの方には、お会いしておりませぬ」
 大方を話し終えて少しは落ち着いたのだろうか。やや低い声音で華子が言葉を口にした。
 翌年、男は訪れなかった。
 ようやく落ち着いた生活を送れるかと思った矢先、しかし、彼女は気付いたのだ。最後に告げられた男の言葉がまるで呪いのように自らに纏わりついていることに。
 彼女は―――舞いを、捨てられなかった。
 幼馴染と村を抜け出した当初は収まっていたはずの性、暇さえあれば蝙蝠片手に舞いに興じる癖がまたしても目を覚ましていた。男が訪れていた頃はその間だけで済んでいた舞いへの傾倒は、男が来なくなってから何故か一層激しくなった。
 飲むよりも、食べるよりも、息をするよりも。
 笑うよりも、悲しむよりも、生きることよりも。
 体力の続く限り舞い続け、疲弊して倒れ、目覚めてしばらくの間は朦朧としていても意識を取り戻したならば舞いへと立ち戻る。それのみが生きる証、それがなければ生きて行けぬ、それと悟って殉じる生贄の如く。
 そのために何度良人を泣かせたろう。
 何度苦しめたろう。
 何ひとつ返せない、何ひとつ与えてやれない己のために。
 ―――悲しむ顔など見たくなかった。せめてもう一度笑ってほしかった。自分を村から連れ出してくれた時のように強く、優しく、誰よりも深い慈しみを篭めて。
 ………だから。
 舞いを舞わずにいる、正常な精神を保てている一時を見計らって終に別れを告げた。疲れ果てて眠る男の傍らで零した涙を最後に、脇目も振らずに良人のもとから飛び出した。
 記憶は既に朧、月明かりが草に滴る露を目映く輝かせていたことだけを覚えている。




「間もなくわたくしは旅芸人の一座に加わりました。最初こそ案じておりましたが、舞いを見せたなら受け入れてくれるはずと不思議と察しておりました」
 それはそうだろう、彼女ほどの舞い手を見逃す一座があるとは思えない。
 そうして幾度か場を変え、座を変え、たどり着いたのが此処だったと言う訳だ。
 全てを成し遂げた満足感と、最早これ以上を望むことは出来ないとの諦めを綯い交ぜにした表情で女は薄く笑みを刷く。
 逆に半兵衛はやや不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。答えはなく、問いだけが山積みのこの状態。
 ―――何故、彼女は半兵衛を見て「そう」と感じたのか。
 ―――何故、男は半兵衛を「それ」と看做していたのか。
 疑問は尽きないがいまの予測が的中していたならば、少なくとも男が半兵衛を知っていたことと歳を取らなかったことには説明がつけられる。いや、それ自体がそもそもかなり眉唾物ではあるのだが。
 おそらく、では、あるが。
 男―――『不動』は、ヒカゲと同じ血を継いでいる。濃さの違いはあれど、確実に華子も、そして己も。
 血を紡いだ男は『時間』を渡っている。
 知り得た未来に沿うように過去を改竄する愚行を繰り返している。
 半兵衛が秀吉に仕える未来を知っていた。だから求める人物が武家にいることを華子に示唆した。
 半兵衛がいずれなんと呼ばれるかを知っていた。だから『麒麟』に喩えた。
 種が明かされてしまえば如何ということはない事象の連続。小刻みに『時間』を移動することが出来たなら『本人』の上を流れる時間は少なくとも、周囲には彼ひとりが若さを保っているように見えるだろう。
 何故に『時間』を渡れるのか。
 ならば自分らとて『時間』を移動できるのではないかとの疑問もわく。
 かつて、比叡山の近くにて垣間見た幻影のように。
 だが、細かなことは気にせずに先ずは目の前の出来事に集中することにした。自らの身上だの根拠も不明な能力だのは、取り合えずいまはどうでもいい。
 考えるべきはこれから先のこと、そして、主の進退のみ。
 口元に指先を当てて少しだけ考え込む様子を見せた半兵衛は、そっと華子に視線を流した。
 何もかも無くした風情で白拍子は悄然と座り込んでいる。
「―――華子殿、いや、あやめ殿」
「………」
「幼馴染に―――あなたの良人に、会いたいですか?」
 僅かに華子の瞳が揺らいだ。胸中の狂おしい欲求を映し出したような色を浮かべた眼差しは、だが、次の瞬間には諦めと共に静まり返る。
「今更、無理でございましょう………幾度も、幾度も裏切ったわたくしのことなど―――」
「そうでしょうか」
 いつの間にか握り締めていた左の拳をゆっくりと解きほぐしながら半兵衛は穏やかに笑んだ。
「話を伺う限り、あなた様の良人は芯の通った立派な方と思われます。幼い頃よりあなたを見つめ続け、巫子になりし後であれ奪い去るに躊躇しない気骨の在る人物―――嗚呼、まさしく『芥川』ですね」
 軽やかな笑い声さえ零しつつ。
 巫子と目される姫を攫いだし、共に生きようと脱走を図った男の話。鬼に喰われたとも、追っ手に連れ戻されたとも伝えられる姫の物語。だが、鬼に喰われたとて連れ戻されたとて、男は姫を諦めることが出来たのだろうか。
 簡単に諦められるなら。
 最初から連れて逃げようとしなかったろうに―――。
 薄闇色の瞳に静かな熱を湛えて。
「私にも―――故郷に、妻がおります」
「………存じて、おります」
「もし―――いまこうして離れている折りに、彼女に何か不幸があったとして。その不幸が故に彼女が私から離れることを望んだとして」
 一体何を語るつもりなのだろうと華子が眉を顰める。彼女の後ろに控えた茜も同様で、動じていないのは後ろに座す佐助のみかと思われた。
「何故に私が、彼女が私から離れることを許しましょう。どれほどに隠そうとも真実を暴きたて、立ち去る理由を問い詰め、知り得た後は不幸をもたらした存在を消し去るのみ」
「………」
「離れることは許さない。それが彼女の意思であろうとも、私がそれを許さない。幾度の裏切りも数多の別離も関係ない。私が彼女を望んでいる。それが総てだ」
 ―――まさか。
 の、想いが強かったのだろう。
 華子は声を失ったまま微動だにしない。目を見開き、呆気に取られた表情を浮かべている。脇に控える茜もやや虚を突かれたような表情をしているのを見て、漸く半兵衛はゆるゆると口元を緩めて微かな笑いを乗せた。
「と、まあ、恋する男とはかくも身勝手且つ愚かなものなので」
 緊張する必要はありませんよ、と相槌ひとつ。
「ましてや二世を誓った仲ならば幾度裏切られようとも簡単には諦め切れませぬ。別れるにしてもそれはとことんまで腹を割って話し合ってからのこと。先ずは会わねば如何にもなりますまい」
「―――です、が………」
「理屈ではございませんよ、あやめ殿」
 半兵衛は彼女を『華子』と呼ぶのはやめていた。第三者の前ではこれまで通り白拍子としての名を用いるとも、知った以上は叶う限り彼女の本質に近い言霊を当てていたかった。
「会いたいか。会いたくないか。ただ、それだけです」
 見開かれていた瞳が瞬きを繰り返す。
 ゆっくりと感情を取り戻した黒瞳が潤み、耐えて久しい雫を頬に零した。
 伝い落ちた白露が手の甲で跳ね返り差し込む陽光にきらめきを放つ。
「………た、い―――」
 声は細く、小さく。
「たい………!」
 けれど、確かな力強さを内に秘めて。

「あの人に―――もう一度、会いたい………………っ」

 はらはらと止め処なく流れ落ちる雫が辺りに散らばる。
 頬に、てのひらに、膝に、畳に、跳ね返るそれらは鈍く輝いて。
 漸う引きずり出された白拍子の本心に、ならば例の呪縛を解く足がかりにもなろうと安堵の息。
 決意が揺るがぬ内に伺いたい、こころより再会を願うのであれば城より逃れるための策はひとつしかないと呟いて。
 其は何ぞと問う唇に返すはひどく冴えた笑みと落ち着いた色の瞳。
「願うはひとつのみでございます」
「―――何、でございましょう?」
「年明け間もない奉納舞いの場において」
 不安に揺れる眼に半兵衛は淡々とした言葉を突きつけた。

「華子殿には死んで頂きたい。それで総て首尾よく運びますから」




 陽も傾き空は赤く染まりつつある。どんよりとした薄曇ではなく、雪をもたらす白でなく、このように目にも目映い色彩を迎えるのは随分久しぶりのような気がした。
 様々な命令や調達すべき物資をまとめた書の束を整理しながら半兵衛は「時間が足りないな」とぼやく。書き上げたものには自作の朱印が刻まれている。罪悪感を覚えつつも裏で画策せねばならないのが『軍師』だ。
 やるべきことは多く、人手は足りず、時間ばかりが差し迫る。
 いま半兵衛に動かせる手駒は非常に限られていた。叶う限りは小一郎や小六に頼もうと思うが、色々と計算するとそれでも足りないので、光秀も巻き込んでしまおうかと検討している。
 記し終えたばかりの紙を折り畳み、開け放たれた障子の向こう側を見遣る。
「佐助」
「此れに」
 間を空けずに答えが返った。
 影のように戸の脇に控えた姿を見つめ、同じ黒衣でありながら受ける印象が例の男とは天と地ほども異なるのは本当に何故なのだろうと思いながら。
「あやめ殿の様子は如何だ」
「眠りに就いておられます」
「無理もない」
 流石にあの発言は突然に過ぎたかと半兵衛は自嘲した。驚かせたかった訳ではないのだが、実際、彼女の寿命はあれで三年は縮んだことだろう。
 実現性も怪しい策を選べと彼は言う。ここ数日、舞いを共にしたとは言え本来的には見ず知らずに等しい関係だのに、何をもって信頼に足るとすれば良いのやら。
 しかして軍師の脳裏を掠める不安は聊か別の方向から訪れている。
 気になるのは、伝えられた『動かずの男』の言の葉。
「―――おかしいと思わないか、佐助」
「は?」
「何故に奴は………あんなことを言ったのだろうな。常の言い回しであれば『死んでも治らない』と告げそうなところを」
 何故。
 ―――『一度』死なねば治らない、などと告げたのか。
 まるで彼女の未来を読んでいるかのように。
 いや、違う。彼女の未来を知っているからこその言葉だったのか。
 奴は自分の策を予測していただけではなく、事実として知っていたからこそ華子に伝えたのか。『結果』を知るが故に『きっかけ』となる言葉を残そうとしたのか。
 己の策は向こうに見破られている可能性が高い。
 ―――それでも。
 微かな憂いを含ませたまま紙を部下へ手渡す。
「この時節では難しいだろうが、其処に書かれているものを揃えて欲しい。材料を入手した後の処方は茜に任ずる。あやめ殿の傍近くいる者の方が体調も判じ易かろう」
「御意」
「伽藍殿と宗易殿に連絡を。三好衆に対しては例の策を続行する。その後は出来る範囲で構わぬ、あやめ殿の幼馴染の行方を捜してくれ。名の知れた傾国に対してこころから共に生きようと告げた男だ。彼女の帰りを待ち続けているか―――もしくは捜して旅をしているか………」
 ふ、と半兵衛は表情を密やかに曇らせた。
 ―――自分には、何も分からない。
 顔も知らない、夢で垣間見ただけの相手に、自分も操られているのかもしれず。
 なのに此処に留まるこの愚行、この迷い。
 頬に刻む自嘲の笑みすらもただの逃げとしか思われない。立ち去れないのはただひとつ、己が未練のために。
「おそらく彼女は………良人だけは傷つけたくなかったのだろうな」
 それほどに想い、失うことを恐れ、不幸にすることを怖れ。
 自らが関わることを許されずともその者の生涯が平穏なものとなるのであれば。
 この身に起こる、どれほどの艱難辛苦とて。
「真実、相手を思うのであれば―――離れるのもまたひとつの道、か」
「半兵衛様」
 珍しくも佐助が咎めるような声を出した。
 軽く笑うことで声を振り払い、暮れ掛けた空の向こうで事の次第を眺めているだろう相手に誓う。操られているだけでは済ませない、と。
「………私や茜の目を掠めて無理だけはなさらないで下さい」
「無理、とは」
「あなた様は今日、目覚められたばかりです。光秀殿や秀長公との会談は明日以降にお控え下さい」
「―――考えておく」
 だが、今日やれることは今日の内に片付けておかねばならない。
 故に自身はどれほど部下に諌められたとて無理を重ねるのだろうし、それと知っていて部下も苦言を呈するのだ。同じ『予定調和』であってもこちらの方が余程心地よい。
 今度はこころからの微笑を乗せて部下へと告げる。
「さあ、行け。だが、無理はするな。私はお主たちを失いたくはない」
「………命に換えても」
 だから、『命』には換えるなと命じているのに。
 それともこれは幾ら諌められても自身を省みない己への仕返しなのだろうかと、姿を消した部下の気配を視線で辿りながら柔らかな苦笑を半兵衛は浮かべた。




 誘いを受けたのは久しぶりの晴れ間が覗いてより数日経過してからのことだった。
 どんよりとした薄曇と時に降りしきる雪に変わりはなかったが、一度でも太陽が顔を覗かせた為か、不思議と周囲の空気は軽かった。道行く人々の顔色まで見比べた訳ではないとしても、少なくとも城内の雰囲気は先日までとは比べるべくもない。
 士気が高まっている、もしくは、血気盛ん、と言うべきか。まさかと思いつつもひとつの予測を光秀は否定しきれないでいる。
 以前と等しく武芸の鍛錬に励む歩兵たち。特に木下組みの働きは顕著である。彼らは少数の寄り合いを拵えて仲間内で競い合っているのだが、最近富に勢いがあると言うか、笑いが絶えないと言うか。城内ばかりか町内の見回りも隈なくこなす彼らに触発されて他部隊の者たちも張り切って武器の手入れだの備蓄品の用意だのの職務に励んでいる―――ように感じられる。
 そう。木下組が起因だというのが、根拠のひとつ。
 未だ定例会のように白拍子の舞いを朝に眺める慣例が無くなった訳ではない。それでも先ごろよりは彼女に向けられる好色な目は格段に減っていた。無論、彼女の容色が衰えるはずもない。相変わらず透けるように白い肌、漆黒の髪と瞳、折れてしまいそうなほど細い手足。けれども一部の人間を除いて、ある日を境に彼女に格段の興味を示す輩が減ったのも確かである。
 それが、根拠のふたつ目。
 前述した「一部の人間」には将軍や秀吉も含まれていたが、少なくとも秀吉は軍師と縁りを戻したらしい。見舞いに訪れたところ、縁側で並んで日向ぼっこしている姿を見かけた。様子からして三好衆を抗すべき策を練っているようだったので声をかけることこそしなかったが、少し顔色が良くなった半兵衛と、仏頂面と捻くれた笑みを零しながらも寛いでいる秀吉を見てもそれは明らかだった。
 だから、それが最大の根拠。
 ここ数日の多種様々な変容には、全て木下組の軍師が関係しているのではないのかと。
「―――買い被りですよ」
 呼び出された先、開口一番にそう問い掛けてみれば想像通りの苦笑で返された。もとより素直に「実はそうなんです」と頷かれるとは思っていない。
 僅かに開いた障子の隙間より差し込む月明かりを愛でながら出された茶に口をつける。
 前回、こうして面談した時の彼は随分参っていたのだが、いまは大分調子を取り戻したようで光秀は安堵の息をついた。
 とは言え、彼が調子を戻したこと即ち喰えない軍師が復活したと同義であるので油断はならない。
「お前と白拍子殿が共に寝入ってより数日―――お前が意識を取り戻すと同時に城内の空気が一変した。某かの影響があったと勘繰るは無駄と思うか」
 策を弄したとかではなく、精神的な面で、と揶揄してみても。
「大御神が天岩戸よりお出ましになったが為でしょう。誠、陽光の力強さには誰も及びませぬ」
 などと素知らぬ顔で語ってくれるのだから憎たらしいことこの上ない。
 だが、これでこそこいつだなと諦め混じりの笑みを刻み、のんびりと茶を啜っている相手に無駄と知りつつ幾つかの鎌をかけてみた。
「ところで―――佐助殿を見かけぬが。何処にいるのやら」
「奉納舞いに使う衣装のことで城外の問屋に詰めております。将軍様の注文も多岐に渡る故ご要望に沿うのはなかなか難しゅうございますな」
「伽藍殿にも会うたのだろう?」
「この度はご面倒をおかけしました。礼のひとつも述べねば恩知らずの謗りを免れぬでしょう」
「正勝殿は兵士の鍛錬に余念なく、秀長殿は武器の仕入れに奔走しているそうな」
「お二方に任せておけば木下組も安泰ですね」
 まさしくああ言えばこう言う、見事なのかあからさまに過ぎるのか分からない適当な弁を弄している。
 呆れ返った目を向ければ相手は微かな笑いを零した。ばれるのはもとより承知、その上で殊更に分かりやすい嘘ばかり並べ立てたのは彼が光秀に向ける「誠意」なのか。どうせ寄越すならもっと簡単なものにしてほしいものだ。
 つまり、半兵衛は光秀の発言全てを肯定している。
 ―――全ては事実であり、また、裏があると。
 所詮は複雑そうに見えて単純なところもあるこの年下の友人の思考を読みきろうと言うのが無理な話なのだろう。光秀の部下にも「草」はいるが半兵衛の部下に敵うはずもない。情報戦では戦う前から勝敗が目に見えていた。
「………十兵衛殿。お呼びしたのはあなた様にご依頼したいことがあるからなのですよ」
「ほう? 先だってまで寝入っていた者の頼みだ、聞くだけなら吝かではないぞ」
 叶えるかどうかは少し置いといてな、と笑みを零せば相手もまた眼差しを緩める。ゆっくりと湯飲みに口をつたけのを見計らうように実はですね、と前置きひとつ。
 光秀は、茶を飲んで。

「奉納舞いの当日―――信長公がいらっしゃるんですよ」

 ………すぐに吹き出した。
「ちょ、大丈夫ですか?」
 激しく咳き込む相手に本気で驚いたのか半兵衛が慌てて背中を撫でさすった。未だ喉もとに絡みつく何とも言いようのない感覚を厭わしく思いつつ、混乱も露に光秀は視線を上向けた。
「―――真か!?」
「はい」
 抑揚の無い口調で答えを返すと元通りの位置に半兵衛は腰を下ろした。先ほどと変わらぬ笑みを浮かべた表情はからかっているようにも見えるのだが、生憎と瞳だけは親しい者のみにそれと分かる真実の色合いを湛えていた。
「あの方は岐阜城におられるのではないのか!」
「然様でございます。ですから、お呼び致しました。秀吉殿と―――あなた様の連名で」
 微かな動揺と僅かな不快の念に光秀の眉が歪められた。連名、と告げられはしたが無論そんなものを書いた覚えは無い。
 視線に促されてか半兵衛は懐から写しの書を取り出した。渡された文を確認して光秀は視線を鋭くする。内容は然程のものではない、三好衆が仕掛けてくる詳細な時期が判明した、ついては挟み撃ちにしたいので幾許かの兵を派遣して頂きたいと、それだけの。
 しかし、ちゃっかりと織田信長の好奇心をくすぐるような単語ばかり記されている辺り、執筆者は紛れも無く目の前の人物だろう―――半兵衛が秀吉の代筆を勤めることはよくあったし―――最後に記された秀吉の名前だけは当人の直筆らしいのだが、何故か続いて光秀の名まで記されているのだ。ご丁寧に花押まで押してある。
 印を何処から調達したかと問えば。
「手作りですよ。十兵衛殿の名も私が見よう見まねで」
 似ていましたか? と尋ねられて答えに詰まる。この調子で名を騙られては堪ったものではない。例え目の前の軍師が決して悪意から行うのではないことを知っていても。
「―――勝手は困る。まして、此処に記されたことが真実である証拠が何処にある」
「三好衆の決起についてはこちらの情報をご信用頂くしかございません。秀吉殿の名だけでは未だ信長公の家臣団へ影響を及ぼすには弱く、故に十兵衛殿の名をお借り致しました」
 在京の武将は当然他にも存在している。なのにその中から敢えて外様に等しい光秀を連名相手に選んだのは、組しやすしと見た上での所業か、あるいは彼なりの便宜のつもりか。
「―――お願いしたい儀がございます」
 半兵衛が改めて繰り返す。
 だが裏切りに等しい行為を前にして今更何を聞き入れられようか。初めて悪意のようなものを篭めて睨み返せば、笑みさえも消した冴えた表情に迎え撃たれる。詫びるつもりも取り繕う気もないらしい。
「年が明けてすぐ………奉納舞の日こそ三好衆が我らに戦を挑む日に他ならず」
 書に記された日付は年明けの某日。
 城の中庭に設けられた舞々台の、舞いを献じる者たちの中央に矢を射込むことによって始まるだろうとの予測まで成されていて、ならば最も危険なのは舞台上に居ざるを得ない彼と白拍子のふたりではないかと懸念も覚えたのだが。
 感情の窺えない瞳を半兵衛がこちらへ向けて。

「戦の全指揮は―――秀吉殿ではなく、あなたに執って頂きたい」

 揺ぎ無い声と態度であっさりと断言した。




 今日こそは年の瀬、年内に終えておきたかった様々な議題をどうにか片付けて、片付けようにも片付けられない事項は継続案件としたいつも通りの夜半過ぎ、灯り代わりの蝋燭すら勿体無いからと秀吉が眠りに就こうとしたところを見計らったように訪れるのが総兵衛という男である。
 とはいえ、本日の来訪者は珍しくもすぐに半兵衛に立場を入れ替えたのだけど。
 見回りの兵士の苦労を思えよ、休める時に休んでおくのが上役の努めだろうがと愚痴を零して尋ねてみれば、手土産がわりに酒を持参した彼曰く、折角新年を迎えるのだから初日を共に拝みませんかとのことだった。
 初日を待つって、お前、徹夜を強制するつもりかと呆れれば「眠ってて構いませんよ」と微笑んだ。
「それじゃ一緒にいる意味がないんじゃないか?」
「いいですよ、別に。日の出を迎えたら起こしますから」
 そうしたら挨拶ぐらいは交わしてくれますか? との希望を断りきれなかったのは、決して自分が彼に甘すぎるが故ではないと思いたい。
 事実、自分としては「出来れば華子殿と祝いたいなぁ」などと考えているのだから。
 しかし、最近ますます奥にこもるようになってしまった彼女のもとに幾ら新年とはいえ初日から訪れるのは憚られる気がしたのだ。
 仕方がないとため息つきつつ、その実何処かで密かに喜びながら。
「お前、もしかして酔ってないか?」
 受け取った酒瓶はやや軽かった。
「まさか! 私は下戸ですよ? でも、そうですね。総兵衛は飲んだかもしれません」
「暢気なものだな。将軍の要求だの三好衆だの、年明け早々面倒くさい事柄が山積みだってのに」
「―――私にとっては木下組で初めて迎える年明けです」
「………そうか。そう言えばそうだったな」
 もうずっと前からこうして共に新年を祝っていた気がするのだから、全くもって慣れとは恐ろしい。
 杯に注がれる白濁の液体を眺めるともなしに眺め、ぼんやりとした背景に月明かりが差し込んでいることから、先刻まで降り続いていた雪が止んだことを知る。
 ほんの少しの嫌味とからかいを含めて告げてみる。
 どれほどに軍師が物事を隠そうとも、己とて僅かながら事実の欠片は知っているのだと。
「先日―――光秀と密会してたらしいな? 今度はどんな悪巧みだ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。十兵衛殿は見舞いに訪れてくださっただけですよ」
 それでも、訪れたことを否定はしないのだ。
 吹き抜ける風の冷たさと手にした杯から伝わる意外なぬくもりに安らぎつつ、もしかしたら小一郎は後からこの些細な宴のことを知って拗ねるかもしれないと考えて笑いを零す。
 すっかり板についてしまった唇をひん曲げるあまり品の良くない笑みと共に、正面から相手の顔を見つめ直した。
 月を頭上に、照り返る雪を背に、色素の薄い髪を風に靡かせ白い面に穏やかな笑みを湛える。その様をおそらく自分はいつでも求めている。静かに座す、忘れ去るには惜しすぎる面影をきっと、記憶の続く限りこころの奥底に。
 高く、高く、杯を掲げた。
「―――上様の飛躍の年となりますように」
 同意しかねるのか、相変わらずの信長への傾倒っぷりに呆れたのか。
 共に杯を掲げながらも異なる色の笑みに部下は口元を緩めて。
「………我らが主に、幸あれかし」
 触れ合った杯の淵から響く控えめな音が夜の静寂に余韻を残した。
 未だ年の明けぬ内より酌み交わし、先を語る行為を鬼に笑われるとも確たる意志があるならば然程の痛痒も感じぬ。
 語り明かし、飲み交わし、次なる年のその暮れも、その暮れを越した年明けも。
 共に在れたならそれこそ我らが「幸」よと酔いに任せて笑いあう。時々刻々と移り変わる星の並び、月明かり、白んできた空の色合いの見事さも隣に座す者の存在があってこそと、互いに口には出さぬままで感じ入り。

 ―――明けて、永禄十年の朝が来る。

 

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