蒼い月明かりの下、立ち去ろうとしていた部下がふと歩みを止める。
「―――宜しいのですか」
「何がだ」
 主は静かに問い返す。
「敵方にはあの男がいるようです。先の件で袂を分かったとは言え、あなた様にとってはかつての主」
 その胸中、如何許りかと。
 されど眼前の主は穏やかな笑みを交えて滔々と語る。彼の人物が敵方に組していることならば、疾うに旧友によって知らされていた。覚悟なら既に出来ていたのだと。
「今更、揺れるまいよ」
 次は、手加減などせぬと決めた。
 いま、自らが尽くすべき相手は他にいて、かつての主にかまけている暇など存在しないから。たとえ幾許かの寂寥と愛惜の念が生じようとも、それがためにいまの立場を忘れることなど許されまい。
「あなた様が、それでよいと仰るのであれば」
 最期まで付き従うのみと、視線を注いだ黒瞳を薄灰色の瞳が受け止める。
 ひとつ、強く頷き返し。
 黒衣の忍びはその場を後にした。

 


<漆> 見ざる哉、言わざる哉


 

 都に辿り着きし者が誰であろうとも、住み慣れし町人たちを楽に支配できると思う勿れ。なべて従う者たちが商いにて一家言を成せようものか。
 此度の入京者は尾張の荒くれ、かつてはうつけと呼ばれし男。お手並み拝見とばかりに身を潜めれば街道の整備、座への進言、望むは名誉より実益と。果てまで待つまでもなく容赦なき税の徴収、いずれの寺社も町も逃れることあたはずと。
 逆らわずして何とすると立ち上がりしは堺の衆。救うは三好、馬と兵とを取り揃え、敵陣を狙うこと幾ヶ月。内に不穏な動きあり、敵に備えを許すべからず、されどいまは静観せよと判じたは、旗持たざるが故の不手際か。
 入り込みしは敵方の草。振りまかれる報せ、立ち上る不利の噂に動揺は絶えず。言を発せしは何者かと上が探れども隠るるに敏い足抜き。
 確かな筋と持ち込まれたはもののふらしからぬ本國寺での宴。典雅を志すにせよこの時期とは愚かしき真似と嘲笑い、裏にはまとまらぬ自軍への焦慮、これぞ好機、攻め滅ぼすがよしとしたは早計に過ぎはせぬか。
 またひとつ、策を成せし草は夜陰に乗じ館へと帰還す。その日、その時、その場に開戦の狼煙を上げるため。

 ―――かくして。

 永禄十年の朝が来る。




 年明け数日の真冬の空は目に痛いぐらいの快晴だった。肌に突き刺さる寒さと、踏みしめる霜柱、吐く息の白さが視界を覆う。
 微かに咳き込み、何処か熱っぽい身体を奮い立たせて半兵衛は真っ直ぐに天を見上げた。
『いよいよだな』
(ああ)
 今日こそがその日、その時。如何なる過ちも手違いも許されない。機は一度きり。
 佐助も茜も任についている。素人同然の華子―――あやめだけは眠れない夜を過ごしたかもしれないが、良人に会いたいと願ったのは紛れも無い本心だったはず。ならば、耐えてもらわねばならぬと彼にしてみれば聊か厳しいことを考えた。
 表向きの主張と裏腹の本音、自身が何ゆえにこのような策を取るのか、そこには多少の私事も含まれていると自覚していた。
 早々に手を通した舞台衣装に自嘲して。
 夜陰に乗ずる策を敵は取らない、いや、取れない。
 昼日中に決着をつけることこそが第一の目的。それでこそ、敵を倒したのが誰であるのか将軍の目にも明らかになるだろう。
 眼前で旗印を見せ付けることの意義を半兵衛はよく知っていた。
『さて―――行こうか』
(ああ、行こう)
 既に本國寺の庭は敷かれた舞台と取り巻く管弦、兵どもでごった返しているに相違ない。
 気を引き締めるために頬をひと叩き。半兵衛は蒼い衣の裾を翻して屋敷に背を向けた。




 初日の光を拝んでいられたのは僅かな間、翌日からは昨年と変わらぬ業務の日々。この数日で片付けねばならなかった舞台の設置、雅楽に秀でた者たちの選別、兵の配置等、仕事だけは掃いて捨てる程にあった。
 冷えは大敵と軍師が持ち込んだのは濁酒と油。酔いが回ってはろくに戦えぬと酒類こそ多少は控えられたものの油は壷に入れられて要所に配備された。曰く、油は水よりも温いらしい。手足がかじかんだ際に暖を取れと言う訳か。火の取り扱いを違えれば大変なことになるなとため息つけば、何処でも同じことと笑われた。
 常よりも気張った服装、中途半端な袴姿に秀吉はやや自嘲気味の笑みを刻む。
 奉納舞いの当日を迎えた館は朝から騒がしい。己とて、こんな庭先でぼうっと空を見上げている暇などないはずなのだ。けれど何故か、口をついて出るのはため息ばかり。
 埒も無い―――己が恐れているのは奉納舞いが終わった、その後のことだ。
(行って、しまうのだろうな)
 あの白拍子は。
 幾ら将軍に身請けされたような立場であれ本来的に不要な存在。将軍が執着しようとも武士連中の反感は避けられぬ。彼女自身を各武将が慕えども、「在京の守護職は揃って女にうつつを抜かしている」と飛脚が走れば信長の咎めは避けられまい。
 彼女ほどの舞いの名手。野に下ればいずれの座でも加われる。
 物思いを振り切るように秀吉は腰を上げた。遠くから響く管弦の音が祀りが近づいたことを知らせている。間もなく、着付けを終えた華子―――と、半兵衛が舞台に引きずり出される頃合だ。
 その前に様子を見ておこうかと、彼は廊下に上がると本殿に近い控えの間に向かった。
 すれ違う者たちも、警備につく兵士たちも、厳しい表情をしている。外回りや裏門の守護についた兵たちがやや沈んで見えるのは気のせいだろうか………彼らの位置からでは、どう足掻いても本殿前の奉納舞いを観ることは叶わないから。
 部屋の中から笑い声が聞こえる。覚えのある話し声にほっと息をつきながら入室の意を伝えれば、僅かの間も置かずに戸が引き開けられた。
「兄さん、遅かったじゃないか。寝坊した?」
「まさか」
 小一郎の言葉を笑って否定しながら一歩、畳敷きの部屋に踏み込んで。
 居並ぶのは小一郎の他に小六と光秀。面子がひとり足りないなと目を転じたところで停止した。
 俯きがちにこちらを見つめる、紅の華、一輪。
 緋の内掛けに緋の袴と白の水干、目にも艶やかな緋の蝙蝠を手に立烏帽子、口元に引かれた朱も鮮やかに。其処彼処に金糸、銀糸を縫いこんだ目出度き縁起物の衣装を取り揃え、裾に結ばれた紅白の紐に絡む銀の鈴。
 豪奢でありながらも儚げな華子の佇まいに咄嗟に言葉を紡げなくて、情けなくも秀吉は目を瞬いたのみで途方に暮れた。
 綺麗、と喩えるのも躊躇われるような儚さと同時に感じる艶やかさ。
 苦笑まじりに小一郎に肘で小突かれた。
「兄さん。見惚れるのも分かるけどそんなに凝視したんじゃ失礼に当たるよ」
「へっ? え―――あ、ああ。そうだな」
 やっとの思いで目を逸らしたものの、気を抜くとすぐに顔は彼女に向きそうになる。視界を掠める紅に惹き付けられてやまない。こういう時、気の利いた言葉のひとつでもかけることが出来たなら何の苦労もないだろうに、小一郎や小六のからかうような視線や、光秀のため息ばかりが気に掛かる。
 華子は衣装こそ可憐ではあるが、少し顔色が悪いようにも見えた。舞うこと自体に彼女が怯えるはずも無い。と、なれば、周囲の物々しい警備に身を竦めているのだろうか。彼女が男性を恐れていることは誰の目にも明らかな事実である。
「華子殿」
「は、はい」
 呼びかけに一瞬だけ上向けられた漆黒の瞳は、すぐにまた伏せられた。流れ落ちる黒髪に目を奪われながら。
「体調があまり優れぬようですが―――白湯でもお持ち致しましょうか」
「いえ、いいえ、お心遣いなど無用にございます。どうぞ構わないでくださいませ」
 逃げるような物腰はいまもむかしも変わりはない。
 彼女が怯えることなく言葉を交わせるのはやはりあの軍師だけなのかと思うと、胸が焦げ付いた。
 不機嫌さを露にせぬように、背後に佇む弟に問い掛ける。
「半兵衛はどうした。あいつも着付けしなきゃいけないんだろ?」
「先生ならもうとっくに着付けなんか済ませてますよ。いまは城内の見回りに行ってます」
 どっかですれ違ってるものと思った、と小一郎は肩を竦めて見せた。
 すると、まるで計ったかのように襖の向こうから呼ばわる声が響いて。
「失礼します。―――竹中半兵衛です。只今戻りましてございます」
「入れ」
 落ち着き払った彼の声が聞こえた途端、あからさまに安堵の色を浮かべた華子に幾許かの腹立ちを覚えながら秀吉は素っ気無く答えた。すらり、と戸を引き開けた側はそれとは対照的に笑っている。
「良き朝にございますな、秀吉殿。既にいらしていたとは知らず、挨拶が遅れまして申し訳ございませぬ」
 深く一礼、白い面立ちに浮かべた控えめな笑み、静かな所作で立ち上がり。
 不覚にも。
 またしても何も言い返すことが出来ず、まじまじと相手を見詰める羽目となる。
 真っ直ぐに相手を捕らえる、蒼の鳥、一羽。
 純白の内掛けに蒼の袴と蒼の衣を重ね、腰に無骨な大小を携えて、色の薄い髪を侍烏帽子に押し込んで。随所に金糸、銀糸を縫いとめた門出を祝う紋様、裾と袂に結わえられたのは黒白の絹糸に微かに絡む銀細工。
 華子と対になるよう作られたことが明らかな。
 いや、それ以前に、いつか何処かで見たような。
 様々な疑念や感情が脳裏を過ぎったにも関わらず口をついたのはごくごく平凡な一言。
「………そんな着物、持ってたか?」
「ああ、これは」
 笑みは絶やさぬままに半兵衛はちょっと困った風に袂を振って見せた。
「将軍の意向で作られたのですよ。予算は―――とてもじゃないですが恐ろしくて」
 これでもかなり経費を削減したんです、と軍師はため息つく。
「でも、その格好すごく似合ってるからいいんじゃないですか? 先生」
「人形みてぇっつーかどこぞの貴族様みてぇっつーか………まるで誂えたみてぇだな」
「誂えたんですよ」
 小六の言葉に苦笑して、視線が交錯した光秀に笑いかける。上から下までじっと試す眇めつしていた唯一の部外者はやがて満足そうに頷いた。
「やはり、髪を完全に上げると重行の面影があるな」
「………私などより兄の方が背筋が伸びていましたよ」
 軽く右手で頬をかいて、珍しくも照れたように半兵衛はそっぽを向いた。亡き兄と比較されることは彼に寂寥や悔恨といった負の感情ではなく、只管に望郷と憧憬の念を抱かせるようだった。
 一心に半兵衛だけを見つめていた華子の傍に並び立ち、初見よりは遥かに柔らかくなった視線と態度で微笑みかける。
「お待たせ致しました」
「い、いいえ。いい―――え」
 ふるふると必死に首を横に振り、そっと俯いた華子は耳元まで赤くなっている。縋るように半兵衛に魅入っていた己を恥じているのかもしれない。
 ああ、だが、しかし―――。
 何だろう、実に、気に入らない。
 緋の女に寄り添う蒼の男。絡み合った視線は逸らされることなく、言葉少なくともこころは通じ合い、比翼連理の如くつかず離れず傍らに。
 華子はあんなにも安心しきった瞳で己を見ることはないし、半兵衛はあんなにも甘い声で己に語ったことはない。どちらにより苛ついているかは定かでなかったが、とにかく、確かに秀吉は彼らの様子に物凄く腹が立っていた。
 素早く、目の前の光景から目を逸らして踵を返す。
「そろそろ行くぞ。前座も終わってるだろう」
「はい」
 半兵衛は素直に頷く。彼が彼女の手を取って、立ち上がらせる様に目を逸らしながら秀吉は肝心なことを聞いていなかったのを思い出した。
「なあ、おい」
「はい?」
 白拍子の手を取ったのは一時のことだったらしい。すぐ、隣に並んだ半兵衛に少しだけ目をやって。
「演目は何なんだ」
「ああ、題材は『伊勢』より拝借しまして」
 腰の大小に左手をかけ、懐より取り出した蒼の扇をわざわざ開き。
 密やかに、扇に口元を隠して笑った。

「露と消えにし姫君の―――<芥川>を」




『伊勢』とは、実在する人物をもとに書き上げられた「雅」な作品らしい。主人公の男が恋に落ちたり、恋に破れたり、やっぱりまた恋に落ちたり、歌を詠んでこころ慰めたり風流を説いたりしているのだが、生憎と秀吉は興味の欠片もそそられなかった。何だって他の男の恋物語をわざわざ活字を読む苦労を押してまで知らなければならないのか。
 <芥川>はその一説。主人公が高貴な出の女を攫って逃亡を企てるのだが、途中で女は鬼に食われて儚くなってしまう。それを悔いた男の詠んだ歌が有名らしいのだが―――何だったろう? 白露とか白玉とか唱えてた気がするのだが。
 聊か話に手を加えた上で、華子が「高貴な出の女」を、半兵衛が「身分の低い男」を演じるらしい。が、微妙な違和感を禁じ得ないでもない。華子が攫うにたる美貌であるのは自明の理としても、半兵衛に「力ずくで女を攫う」心情が演じられるとは到底思われない。どちらかと言えば、裏で策を練った挙句に堂々と正面から全てを手に入れる男だろう、あれは。
 そんな感想を弟に洩らしたところ、「兄さんは風流を分かってない。ついでに先生を誤解している」と、思いっきり不服そうな顔をされてしまった。お前こそうちの軍師に夢見すぎだと先を危ぶみたくなる。
 奥に座す将軍の御簾の前、右側に秀吉は控え、左側には光秀が控える。京都守護職につく他将も連なるように脇に並んでいる。
 眼前に広がる板敷きの舞台、四隅に焚かれた篝火、先の出し物であった田楽の余韻も冷め遣らぬ内に正面に佇む影ふたつ。舞台を取り囲むように遠巻きに、各々の手に刀や槍を構えた兵たちの意識が演じ手に注がれたままなのがやたら気に食わなかった。
 華子に注がれる好色な視線も耐えがたかったが、軍師に注がれる好機の目もやたら苛ついた。
 あれは誰だ、見たことがない、違うぞ知っている、あれは『きつねつき』だと。
 噂に名高い『麒麟』は病に臥せっていると聞いたものの此処に参じるのであれば常のあれは仮の病か。しかし色の白きこと、線の細きこと、並び立つ白拍子と比べても遜色なしと。
 未だ彼を知らずにいたであろう足軽どもにまで顔の知れ渡るこの事実。白拍子を下卑た欲望の対象としてしか捕らえない野武士のがさつさが鼻につくと共に、軍師を値踏みするような、あの男を手元に置いたならさぞや楽しかろうと、余計な「武家」の嗜みに思いを馳せているだろう輩たちが。
 腹立たしくてならない。
(好き勝手に、見てんじゃねぇや)
 周囲の誰にも気付かれぬよう膝の上に置いた拳を握り締める。
 誰の許しを得て自身の妄想の中でいいように弄んでいるのだ。断りもなく思い耽っているのだ。物欲しそうな目で見ているのだ。
 あれは、あれは、誰が何と言おうとも。
(―――、の、なのに)
 ぎ、と歯噛みした音は誰の耳にも届きはすまい。

 ドォン………

 重々しく銅鑼と太鼓が鳴り響く。笛が主旋律を奏で、琴と琵琶の音が切々と鳴り響く。謡う者の多くは舞舞台の脇に控えている一座だが、後方の御簾の中からも同様の音が流れ出していた。
 か細く、されど強く。
 歌い手の数は少なくともこころ惹かれるのは背後の声だ。
 緋の衣の舞い手と蒼の衣の舞い手が揃って舞台に上がる。

 ――― 白露の 白露の かくもいみじき事かたり 問うや問わずの東おり
 ――― 敢えて応へぬ 君が声
 ――― 雨露の 雨露の かくもさみしき華影に 行くに行けぬの都落ち
 ――― 冴えて久しき ぬばたまの

 まこと、舞いとは不思議なもので。
 常は雅ごとに何の興味も抱いていない者ですら惹き付けられる。まして此度は当代きっての名手と言われる舞い手がふたり。舞台に足を踏み入れた瞬間に変じる雰囲気と気配。其処に在るものは白拍子でありながら白拍子でなく、軍師でありながら軍師でなく、姿形こそ見知ったものをなぞれども、内に潜む魂はことごとく入れ替わったかの如く。
 貴族の男が館の奥に住まう姫に出会い、こころを奪われる。
 姫は、ゆくゆくは東宮妃になるとも語られる身。されど男は卑しき身の上。名声も、権力も、富もなく。ただ只管に恋焦がれ、歌会ごとの垣間見、忍びあい、互いが互いを唯一のものとし都落ちを決意するまで然程の時間は要さず。
 原典を知らずとも内容が理解できるのは歌のおかげか、あるいは真に迫った彼らの演技のおかげか。
 華子が半兵衛に向ける眼差し、差し出す手の揺らぎ。
 半兵衛が華子に注ぐ眼差し、受け止める手の確かさ。
 互いの伴侶がこの場にいたならば、あまりの真摯さと恋に揺れる者のみが持ちうる熱さのために、あらぬ嫉妬に身を焦がしたのではあるまいか。

 ――― 背に負い駆け行く寒白に 抜ける初瀬のやまおろし 激しかれとは祈らずや
 ――― 白魚の示す露草に 知らぬ問い掛け 知らぬ顔
 ――― 都を追われし 東宮が 天占のおとどが見遣るとて 愛しき汝を如何にせん

 手に手を取り、後先も考えずに都を出たが、闇夜をこれ以上進むことは危険だと、男は女を川近くの寺に匿った。追っ手を己ひとりで迎え撃つために。
 先を知る者は此処で「馬鹿が」と舌打ちするのだろう。<芥川>は報われない恋物語だ。女が鬼に食われて終わる物語だ。如何にも何かが住んでいそうな寺に女をひとりで残すなどという愚を犯さずに、疲弊しながらも先へ進めばいましばらく共に居られたのにと。
 とは言え、「鬼に食われた」と表現するのは都人特有のはぐらかしとも言われている。
 現実は、単に、男が女を追っ手に奪い返されてしまっただけだ。その痛みを物語へ置き換えてしまうことを「雅」と取るか「逃げ」と取るかは人によって異なるのだろう。
 舞台上では半兵衛が外へ下がり、華子がひとり取り残された淋しさを切々と演じている。降り注ぐ風雨が、鳴り響く雷鳴が、か弱い女に襲い掛かる。いまこそ彼に傍に居て欲しいけれど、逃げ切るためにはそれは叶わない。早く、早く夜が明ければいい。女は、自分に様々なことを教えてくれる男がとても大切で、愛しくて、憧れて。
 だが。

 ――― あやし あやしと叫べども あなやと叫びて呼ばわれど
 ――― 悪しき雷鳴 風神の 叩きつけたる戸の強さ
 ――― 外で待ちたる連れ合いの こころ呼べども身を呼ばず 聞けず聞かれぬ 切々と

 突如現れた館の「主」が、女を闇に引き込んだ。
 舞台を去った女に代わって、飛び出してきたのは男だった。吹き付ける風の冷たさに震え、雨露に濡れながらも刀に手をやったままの体勢で背後の館を護り続けている。
 しかし、凶行の気配を感じ取ったのか、男は護るだけだったはずの背後の扉に手をかけた。
 暗闇に目をこらしながら、男は言い知れぬ不安にかられている。呼びかけても答えがない。すぐに辺りを見渡せる狭い室内であるにも関わらず誰もいない。
 幾度か繰り返される、切実な呼びかけ。
 漸う女が柱の影から顔を覗かせた。白い薄絹を両手で被きながら妖しく艶んで見せる。
 されど、それは疾うに彼の見知った者でなく、最初こそ喜んでいた男も徐々に疑念に駆られていく。

 ――― 問えば応うる その姿 形かんばせ馴染みもの
 ――― されど応うる その声の なしてこころを揺らすかや
 ――― 降る雨 散る華 いたづらに 俄かに晴れ上がりし宵空の
 ――― 差し込む月明かりに照らされて 嗚呼 やや此れは何とする

 す、と半兵衛の視線が鋭くなる。それは最早馴染みの軍師などではなく、恋に焦がれ、都落ちすらも厭わない強い意志を秘めた「男」のものだった。
 腰の刀に手を添えて、まさかと疑う暇もなく、抜き放たれた刀が空を斬りつけた。
 女の被いていた衣が軽やかに宙を舞う。
 おのれ貴様、さては乱心したのかと。
 軍師の行いを声高に批判するべき諸将もいまばかりは声を荒げない。視線は舞台上に固定され、常識だの理性だのに囚われている余裕がない。
 宙に舞い上がった薄布に聴衆の注目が集中した瞬間。
 身軽にも一撃を避けた女が、「鬼」の仮面をつけた女が笑いながら振り向いた。
 いつの間に奪い去ったのか、男が腰に差していたはずの小刀を握り締めている。眼前の「鬼」の正体を悟った男が嘆く。嘆きながら、それでも刀は離さない。
 打ち合う刀と刀、白日のもとにも関わらず煌く残光が目に焼きつく。
 真のいくさ場に立つ武士たちから見ても激しい剣戟、宙を切る音、されどあくまでも動きは軽く、緋と蒼の衣を翻しながらの斬り合いは。
(ああ、あの動きは)
 知っている、と思った。
 ふたりが、寝食すら忘れて打ち合っていた動きではないか。動きこそ更に洗練されたものの、基本の立ち回りまでは変わらない。互いに憎みあう仇の如く、愛しくてならない想い人の如く、切り結ぶ刀に意志と力を込めて。
「鬼」がふわりと宙を舞い、男の頭上を飛び越える。男は慌てることなく、すぐさま相手に切りつける。
 辺りは、異様な熱気に包まれていた。
 誰もが息を殺して魅入り物音ひとつ立てず、衣ずれや刃のすれる音、吐息すらも咎められるような状態で、一心に眼前の光景を見詰めている。
 刀が交錯する度に、衣が風に浮き上がる度に、館の奥より鳴り響く楽の音が切々と訴えかける度に、まるで自らが既に戦に臨んでいるような高揚感に駆られる。それが秀吉のみに限られた感覚ではないことは、周囲より立ち上る気配からも明らかであった。
 刃の切っ先がこすれあい、遠目にも鮮やかな火花を散らす。
 追い詰められた「鬼」が相手を惑わすためか、仮面をかなぐり捨てて女の姿になる。立烏帽子を外し、風に靡く髪も艶やかに。相対する男も形しか残らぬ女への未練を断ち切るためか、侍烏帽子を投げ落とし、狩衣の片肌を脱ぎ捨て白い衣を露にした。
 交わす刃、交わす視線、過ぎる毎に相手の身に絡みつく袂、足運びも鮮やかに。
 最後の一撃とばかりに両者が斜向かいに対峙する。正眼に構え、視線は険しく、表情は安らかに。息も切らさず、汗のひとつもかかない互いの様を瞳に焼き付けるかの如く。
 端と端に分かれた両者がゆっくりと歩みだし、徐々に速度を増して舞台中央へと刃を閃かせる。
 ―――その、瞬間。
 だった。

 ヒュッ―――!!

 甲高く。空を裂く。
 飛来した矢が半兵衛の肩に食い込む直前で彼に叩き落とされた。乾いた音を立てて地に転がる鏃。
 間髪いれず、半兵衛は華子から短刀を取り戻し投げつけた。居並ぶ雅楽者たちをすり抜け、兵の列を超え、一撃が塀に突き刺さる。
 あと少しでも動いたならば首が掻っ切れただろう位置に。
 塀に突き立った短刀に青褪める足軽がひとりきり。彼の手には弓が握られ、下手人であることを他者に見せ付ける。周囲からの戸惑いの目線、疑惑の目線、怒りの目線に追いやられたか。腕に巻きつけられた薄布の紋様に、誰かが「見かけない顔だ」と呟いたのを皮切りに。
「ひ、ぁぁ、ぁぁぁっ!!」
 見るも無様に取り乱し、取り押さえようとした周囲の腕を振り切って塀をよじ登る。軒に足を引っ掛けながら屋敷の外側へと転がり落ちた。
 誰もが対応しきれずに唖然としている、その隙に。
 鏑矢が鳴り響いた。

「第一隊、構え――――――っ!!」

 至近距離からの叫びに秀吉ははっと目を見開いた。浮遊していた魂が引き戻される。
 太鼓が鳴り響き召集の意を告げる。裏手に控えていた兵たちが素早く、正確な列をもって塀ぎわを埋め、約半数が屋根に上がり弓を構えた。指示を下すのは控えの間から庭へと足を下ろした光秀だ。具足を手早く身に纏い声を張り上げる。
「弓、引け―――っっ!!」
 兵士たちが一斉に館の外へ向けて矢を放つ。少しずつ、少しずつ、状況が把握されてくる。こちらから放つ矢、館に打ち込まれる矢、響く声、鬨の声、紛れもなく―――敵、の。
「っ!!」
(遅れをとったか!!)
 すっくと立ち上がり求める人物を探し出す。
「小一郎、将軍を奥の間へ! 小六、お前は裏手に回ってうちの隊を指揮しろ!!」
「了解、兄さんっ」
「おお、うちならいつでも準備万端だぜ!!」
 弟はにこやかに笑いながら、部下は豪快に笑いながら、場を飛び出して行く。素早く視線を巡らせたが咄嗟の事態に対応しきれている諸将は少ないらしい。先刻の一声がまさしく鶴の一声とばかりに、戦の中核となりそうな本殿前の指揮権は光秀に握られてしまったようだ。その事実に歯噛みしつつも、秀吉は庭に足を踏み入れた。
 視界に飛び込むのは、目にも鮮やかな蒼い衣を纏った人物だ。
「非戦闘員は須らく城内へ身を隠せ! 第二隊、武器の備えを! 第三隊は将軍を守護せよ!!」
 管弦の者たちを城内へ逃がし、その隊列を自身と第三隊で庇うように立つ様は衣装と相まって否が応にも目立っていた。しかし彼は、それすら意に介さないように更に敵の目につきやすい塀の傍へ、屋根の上へ、飛び移っていく。
 秀吉も彼を追って塀の上へと飛び乗った。
 直後、目の前に広がった光景に我知らず呻いた。

「三好衆か!」

 近く、遠くにひしめく群集。鎧兜に身を固め、槍と刀を手に押し寄せる。近くに他の障害物もない本國寺だ、包囲するには容易かったろう。四方から押し寄せる連中に、降り注ぐ矢を刀で払い落としながら舌打ちする。傍らで指揮を執る半兵衛は目立つ衣装のためか殊更に矢の標的にされているようだった。
「おい、半兵衛! お前はせめて鎧を身に着けろ!」
「そんな暇ありませんよ。此処を突破されたら一巻の終わりです、どうにか持ち堪えなければ、」
 塀をよじ登りかけていた敵兵を斬り捨てて
「―――なりませんから」
 薄っすらと頬に笑みを刷いた。
 秀吉も手近な敵を切り捨てる。背後から響いてくる合戦の音に弟や小六の身を案じる。正門周辺では扉を壊して突破すべく敵どもが蠢いているのだ、裏門も似たような状況だろう。
「こいつら、どっから沸いてきやがった? 此処まで接近に気付かねぇなんてことは………!」
「外にも管弦の音は聴こえていたでしょうし、貴方がたが舞いに夢中になっていることは明らかでしたから、気付かなかったのは単なる落ち度でしょうね」
 そうさせた張本人のひとりである舞い手は白々しく語る。
「これだけ急な事態にも咄嗟に対処できるとは、流石、十兵衛殿の軍は訓練が行き届いている」
 聞き捨てならない言葉に戦いの最中にも関わらず眉間に皺が寄った。
 確かに、光秀の軍と比べて野武士あがりが多い木下組ではこのような混沌とした戦況には対処しきれない可能性が高かった。正規軍と傭兵の違いと言ったところか。未だ木下組は組織だった動きをするには数も実力も足りぬ。
 故に軍師の言葉は間違いではない。
 間違いではない、のだが。
 憮然としている秀吉に半兵衛が場違いなくらいに明るい微笑みを向けた。
「お気を悪くされたのであれば後で幾らでも謝罪致します。ですが、いまは」
「―――目の前の戦に集中しろってんだろ」
「はい」
「覚えてろよ。俺は執念深いんだ。絶対忘れてなんかやらんぞ」
 ありったけの憎しみを込めて見詰めているのに、半兵衛は何処か嬉しそうにすらしているのだから手に負えない。畜生、こいつには総兵衛の態度も含まれているんだったと、知らず、舌打ち。共に塀の上で敵と切り結び、城内への侵入を食い止める。
 ふと、部下が動きを止めた。
 遠くを見つめて表情を険しくするや否や、傍らの兵から弓を奪い取り。
「失礼」
 端的な謝罪のみを口に上らせて矢を引き絞る、解けた長髪が風に靡く。敵からすればこれほどに狙いやすい的はないだろうに、不思議と矢が彼を貫くことはなく、刃が彼に叩きつけられることはなく。
 強く、強く引き絞った弓弦が指先の動きまでもが優雅に放たれる。
 切り裂く、一条の矢。

 カ、シィ………ンッッ!!

 押し寄せる敵陣の遥か後方、馬に跨った人物の兜を跳ね飛ばした。兜を飛ばされ、上体を大きく揺らがせた敵はそれでも落馬には至らなかった。距離の開きのため致命傷にはならなかったのだろう。
 珍しくも秀吉は、傍らの軍師が舌打ちするのを聞いた。
「仕損じたか」
 その、声が。
 言い放った、瞳が。
 あまりにも普段とかけ離れていて目を疑った。全てを見透かすような、全てを断ち切ったような、全ての興味をなくしたような、冴えきった双眸。
 屋根に膝をつきながらも秀吉は敵を見極めようと腐心した。ただでさえごった返す戦場、敵の手を掻い潜りながらの確認は容易ではない。かろうじて見えたのは、馬上で額を抑え呻いているらしき鎧武者。陣頭指揮を執る要職のひとりであろうその姿。
 ゆっくりと、怒りに肩を震わせながら面を上げる。
 遠目にも明らかな覚えのある顔に息を飲んだ。

「―――斉藤、龍興………!!」

 半兵衛と、外京で勝負をした男。かつては美濃を支配し、織田に破れた後に落ちぶれ、軍師に絶縁を言い渡された男。
 まさか三好衆に加担していたとは。
 ぎらぎらと燃える瞳は真っ直ぐかつての部下に注がれている。脇から見ているに過ぎない秀吉すら背筋が冷えるような視線を半兵衛は涼しい顔で受け流し、ゆったりと第二矢をつがえた。
 再び、弦が引き絞られる。
 しかし、第二矢が放たれることはなかった。
 突如生じた外界の大歓声に全ての動きが遮られた。本陣を囲んでいた三好衆の外側を、更に囲むように織田の旗印が覆う。敵も味方も浮き足立つ合間に、斉藤龍興は群集に紛れ込んでしまう。
 それを目で追う暇もなく戦況は目まぐるしく変化する。
 城内に乗り込もうと血気盛んだった三好衆は、二方面での戦いを余儀なくされた。主将格が必死に下す命のもと体勢を立て直そうとするが、三方から押し寄せてきた織田軍に押されて身動き取れなくなりつつある。そして、右往左往しているところを狙い撃ちされるのだ。
「あの軍は、うちと、光秀んとこのか!?」
「はい。このようなこともあろうかと、数日前より兵を潜ませておきました」
 篭城すれば戦力が少なくとも防御は可能だ。故に、戦力の半分近くを町内へ散らして別働隊としておいたのである。
 城と敵とに挟まれた三好衆は、じわじわと空いている一方向への撤退を余儀なくされていた。そこに敵の―――織田軍の意図を感じても、生き延びようとする本能こそが彼らの選択を狭めていた。




 周囲は敵と味方が入り乱れ、凄まじい騒ぎになっている。
 血飛沫に悲鳴、歓声、刀で切り結ぶ音。屍が積みあがる度に主の身を案じた。
 木立の上から見ただけでも明らかな主の居場所。塀上の身軽な立ち回り。蒼の衣を纏い、白の小袖を翻し、長髪を風に揺らす様は見事に尽きる。
 雑兵程度では彼を仕留めることなど出来はせぬ。
 されど、何かの手違いで傷を負ってしまうかもしれぬと心が騒ぐ。
(是非もない)
 苦笑しながら男―――最初に、半兵衛に矢を射掛けた雑兵―――は、顔面に貼り付いた変装用の皮を剥いだ。三好衆と同じ文様を施した肩布を外して。
 軽く肩を解した上でそっと佐助は背後を見遣る。
 いま、まさしく戦の渦中にいる主を置いて、己はこの場を去らねばならぬ。それこそが任務であるとは言えなかなかに了承し難いものも感じていた。特に、「お前が私を射るのだ」と命ぜられた時には本気で反対したものである。最終的にはそれこそがこの策の要と説き伏せられて、渋々了承したのだが。
 不服ではあったが、結果だけ見ればやはり主君は正しかったと言わざるを得ない。
「祭り」は人々を狂わせる。
 まして、稀代の名手がふたりも揃ったならば。
 舞台上に渦巻いていた異様な興奮と熱気。あのまま行けば、いずれ誰かが舞台に突入するか、堪え切れなくなった観衆が互いに斬り合いを始めるか、いずれにせよ望ましい事態にはならなかっただろう。見ず知らずの誰かが手加減なしに主に襲い掛かる事態を招くより、調節可能な己が射掛けた方がまだマシだと思えた。
 よもや、あれが半兵衛と佐助によって態と引き起こされた「開戦」の合図とは誰も思うまいが。
 敵陣で宴の噂をばら撒いたのも、三好衆の動向に合わせて奉納舞いの日取りを調節したのも、兵の配置も、信長への文も、全て、全て、主の企みであり、物事は狂いなく彼の思惑通りに動いている。そして、最後の策をも成功させるためには己が動かなければならないのだ。
 大勢は決している。梢を一蹴り、跳躍した身体が風に紛れる。
 後ろは振り返らなかった。




 三方から詰め寄られた敵陣は残された一方へと集合しつつあった。少しでも先見の明がある者ならば察することが出来る策。されど戦人ではないための哀しさか、指揮系統の曖昧さゆえか、誰に唆された訳でもなく己の足で彼らは死出の旅に出る。
「えっ………!?」
 最初に声をあげたのは敵と味方のどちらだったのだろう。
 逃げる先に待ち構える者に誰もが目を疑う。まさかそんな、何故、いま此処に「彼」がいるのかと。屋根の上、敵を斬りつけたままの体勢で秀吉も信じられない思いで前方を見つめた。
 澄み渡る空を背景に高く掲げられた木瓜の家紋。揃いの鎧兜。陽光に照り返る槍と刀の切っ先。
 指揮官であるにも関わらず、兜を小脇に抱えたのみで不敵に笑っている。
 自身へ突撃してくる敵の群れに喜び勇むように、「彼」は高々と右手を掲げた。
 一息に、宣言する。

「全軍、進め――――――!!」

 おおおおぉぉぉぉ………!!
 地を轟かす鬨の声。槍を突き出した第一陣が、雪崩を打って飛び込んできた三好衆と矛先を交える。正面からの真っ向勝負とはいえ、勢いが違う、意志が違う、まして敵は三方を囲まれて、更には前方から「織田」の本軍にぶち当たったとあっては戦意の保ちようもなかった。
 見間違えるはずもない。
 陣頭指揮を取っている主君の姿に秀吉はしばし呼吸すら忘れていた。
「な、んで―――信長様が………」
 戸惑いながらも手は勝手に動いて敵を倒している。
 こんな都合よく彼が現れるなんて思ってもみなかった。確かに三方から囲んだだけでは不十分だと考えていたが、いや、予め彼の登場を予期していたからこそ三方しか囲まなかったのか、何が故意で何が偶然なのか読みきることが出来ない。
 慌てふためいた三好衆は面白いように瓦解していく。この分なら信長に累が及ぶことはあるまい。更には、敵を追い払ったのは織田軍であるとより強く将軍に印象づけることも出来たはず。今頃は将軍の傍近くに控えた小一郎が上手いこと吹き込んでいるだろう。敵が降伏するのも遠くはなく、木下組も光秀の軍もこれ以上の被害を出さずに済んで万々歳である。
 何もかも計ったような事の流れに、軍師が様々な画策をしていたのではないかと疑念は尽きないが。
 信長のもとへ馳せ参ずべく城内に降り立った秀吉の視界を紅の衣が掠めた。
「! あれは………」
 兵の列をすり抜け、刀を危ういところで掻い潜り、皆が皆の戦いに没頭している中を駆け抜けていく。
 緋の袂を翻し、解けた黒髪を背に揺らし。
「華子殿!!」
 秀吉の叫びにほんの一瞬だけ彼女は歩みを止めた。
 しかし、次の瞬間には再び走り始め、そのまま裏門から飛び出した。幾ら正面での戦いが突出しているとは言え未だ裏手も戦の只中にある。正気の沙汰とは思われなかった。
「秀吉殿、如何なされました!」
「華子殿を連れ戻す!」
「待って下さい、秀吉殿。あの方は………!」
 背後で半兵衛が呼び止めるのにも耳を貸さず、敵を切り伏せながら追いかけた。
 裏門から続く道で群れあう兵士たち。地に重なる屍と血臭。荒く息をつきながらも目を凝らせば、立ち並ぶ木々に紛れて器用に逃亡を続ける白拍子が確認できた。
 きつく唇を噛み締めて後を追う。
 敗残の兵も疎らになり、木立が少なくなり、血臭が遠ざかる程の距離まで来て漸く秀吉は彼女の腕を捕らえることに成功した。
 むずかる子供のように華子が激しく首を振る。
「お願いです、放して下さい! 放して下さいませ!」
「何を仰られる! いま外を出歩くのは危険に過ぎます。城内に篭もって―――」
「いいえ、いいえっ。お願いです………もう、解放して下さいませ、これ以上此処に居ることは苦痛でしかございませぬ!」
「華子殿!」
「自由を与えて下さらぬのなら、いっそ―――いっそ、殺して下さいませ!!」
 感極まった涙を流しながら、華子は地面に崩折れる。
 細かく肩を震わせて、小さく息を切らしている。俯いたその様ですら、囚われた手首に滲む痕ですら、美しくも愛しいと思えてしまうからこそ厄介なのか。
 彼女は華だ、美しく舞い踊る、蝶のような鳥のような存在だ。その、稀有な、またとない存在を。

 ―――殺せるはずもない。

 神妙な面持ちで見つめる秀吉に気付いたのか、華子が面を上げる。泣き濡れてはいるものの、初めて真っ向から、華子が彼の視線を受け止めた。途端に生じる怯えと戸惑い、恐れ、忌避の感情。およそ正の感情は抱かなかったらしい彼女の目に、自身はどう映し出されているのかと考える。
「秀吉殿!!」
 半兵衛が息せき切ってやって来た。喧騒と歓声を遠く感じる。彼もまた、危険な戦場を走り抜けて来たのだろう。刀は鈍くてかり、蒼い衣の其処彼処はべっとりと汚れていた。
 は、と軽く息をつき。
 秀吉と華子を交互に見遣った彼は、心底つらそうな表情の後にそっと囁いた。
「………私からもお頼みします、秀吉殿。見逃して下さい」
「何だと?」
 何故、お前が。
 秀吉の目つきが険しくなる。自身が苦手としている女だからこそ追い出す好機と考えているのではあるまいか。
 弾劾の視線に半兵衛はゆるく首を振った。
「その方は故郷に帰りたいだけなのです。どれほどに舞いの才能があったとて、このままこの世に生きるには難い御仁だ」
「馬鹿を言え」
 細い手首を握り締めたてのひらに、より一層の、彼女の手が青白くなるほどの力を篭めながら。
「将軍に何と申し開きをするつもりだ。逃げたとすればうちの失態と咎められるだけだ。舞いの才能があるのならそれこそ舞い続けるのが相応しいと思わんのか」
「舞うことのみが幸せと何故考えられるのです。―――秀吉殿、この方には良人がいるのですよ。彼女の帰りを待っている者がいるのです」
「それが如何した」
 常ならば耳を傾けていただろう彼の言葉にも、いまはこころの一片も差し向ける余裕がない。
 良人―――そうか、良人か。待つ者がいたのか。

 ならば、尚のこと。

 帰す訳には行かない。

「情に絆されたのか、半兵衛。らしくもない。もっと冷静に考えろ。彼女がいることによって得られる利益を考えろ。きっと信長様も彼女を気に入る。将軍のご機嫌取りに使うもよし、兵の士気を高めるのに使うもよし、もってこいじゃないか」
「………違いますよ、秀吉殿」
「何が違う」
 先ほどから華子は俯いたまま動こうともしない。見下ろしても交錯することの無い視線がひどく物足りなく感じられた。
 ―――怯えたもので構わない。
 もう一度、自分を見てほしかった。
 半兵衛はひどく悲しそうに首を横に振る。
「先刻からあなたは将軍を引き合いに出してばかりだ。………でも、違うでしょう?」
「だから、何がだ」

「華子殿に居て欲しいのは将軍ではない―――あなた自身だ」

 その時。
 風が、吹いた気がした。
 けれど秀吉は皮肉げに口元を歪めたのみで、「それが如何した」と言い放った。
「手元に置いておきたいと望んで何が悪い。誰を好こうと誰に惚れようと俺の自由だ。お前に指図されたり忠告されたりする謂れはない」
「そう、自由です。けれど秀吉殿、あなたは、何もかもを手元に置いておかなければ気が済まないのですか。全てを手にしなければ落ち着かないのですか。一から十まで、全部、始まりから終わりまでをあなたの思うがままに」
 おそらくそれは、初めて聞く半兵衛からの明確な批判だった。
 だが、聞き入れる心算など端からない秀吉には何も響いてこなかった。いまはただ、手の先に握り締めた存在が全てだった。
 嗚呼、そうだとも、全部欲しい、総て欲しい、何もかもが欲しい。欲しくて堪らない。
「欲しがって何が悪い。ヒトとして当然のことだろう」
「本能と仰られるなら返す言葉もございませぬ。ですが、欲しがるだけでは得られないものが多いこともまた事実」
「………」
「あなたが己の自由意志を主張するのであれば、何故に彼女の意志を尊重しないのです」
 ふ、と再び口元に刻んだのは。
 あからさまな嘲笑。
 何もかも要らないように見せながら、本当に欲しいものはちゃっかり手にしている人間がよく言ってくれたものだ。忠実な部下、仲間の信頼、無二の親友、それら全てを得た者に「求めるな」などと説教されたくもない。
 いまはいない双子の弟の姿が目の前にちらつく。『此処』から立ち去る代わりに、最も得難いものを手にして消えていった。
 ささくれだった心がいよいよどす黒いものを吐き出して収まる気配が無い。
 決定的な侮蔑の言葉を吐く。
 直前、だった。

「―――っ!?」

 前触れもなく重みを増した右手に引きずられてよろめく。
 地に倒れこんだ傍らで、華子が細かく全身を震わせていた。顔は青白く、唇は紫に変色し、流れ落ちる冷たい汗が全身を濡らしていた。
 何より、彼女の右手に握られた小さな小さな紙包みが。
「っ、華子殿!!」
 急ぎ助け起こす。けれど。
 震えが止まらない身体。急速に失われていくぬくもり。
 口に指を突っ込み、胸元を幾度も叩いた。
「何、を………何を、飲んだ!! 吐け! 早く、吐き出せ! いまならまだ………っっ!」
「いい、え」
 華子は弱々しく首を振った。ぜぃぜぃと喉が鳴る、目の焦点が合わなくなる、表情だけは抜けるように明るく。
「知りあ、の―――に………たの、ました―――死、だけ、の………」
 虚ろな視線が宙を彷徨い、ひたりと半兵衛の上で止まる。
 軍師は傷ましげな顔をしながら反対側に回り込むと、間近から彼女の顔を覗きこんだ。
「―――華子殿」
「はん、べい、さ、ま」
 華が咲くような微笑み。
 誰がどれだけ強制したところで、彼女がこれだけの笑みを浮かべることはあるまいと思えるほどの。
「ありが―――ざいま、し………で、良かっ………」
「はい」
「おねが………が、で―――しを、あの、ひと、の―――」
「はい。必ず。必ず、あなたを良人のもとに」
 握り締めた手首の鼓動が弱まっていく。上下する胸の動きも危うい。
 一声も出せず事態を静観するしかなかった秀吉に、最後の力を振り絞るように華子の視線が向けられた。何も見ていない瞳、だからこそ彼女は、進んで相手を見詰めることが出来たのだろうか。
「………で、よし、さま………?」
 戦慄く唇で、それでも精一杯の笑みを形作ろうと努めながら。
「わたくし、を―――もとめ………のは、うれしかっ………も、―――た、さまが、め、るの、は」
「―――」
「ほか、の………ひ、め―――で、わたし、に、は」
 ―――彼女は。
 流されるしかなかった彼女は、最期の瞬間に何を悟ったと言うのだろう。
 瞳は秀吉から外れ、半兵衛からも外れ、何処までも澄み渡る青空へと向けられた。
 笑う。
 あどけない幼児のように、震える指先を天に差し伸べて。

「あ………………な、た………」

 ゆっくりと。
 ゆっくりと、天に伸びていた指先が地に下りる。瞳と身体が静かに動きを止めていく。そっとてのひらを捧げた半兵衛が、彼女の瞼を閉ざして。
 幾度も経験したことなのに、何度でも傍で見知ったものなのに。
 目の前で起きた出来事が信じられなくて、ゆるゆると、目を見開いたまま呆然と秀吉は首を振った。
 握り締めたてのひらが熱を失っていく。
 その事実を、認めまいとするかのように。

 

<陸> ←    → <捌>

 


 

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