六条本圀寺は勝利の余韻に浸っていた。
 昼間の戦闘から一転、静かで穏やかな夜更けであるが城内はざわめきと喧騒、ある種の興奮に包まれていた。前々より予測されていた三好衆との一線は織田軍の圧倒的勝利に終わった。無論、戦いの全てが終わった訳ではないが、体勢は決したと判断して支障はないのではあるまいか。
 本圀寺に当主―――織田信長を迎え入れた瞬間の地を揺るがさんばかりの歓声は都中に響き渡ったことだろう。
 油断はするな。
 だが、羽根を伸ばすなとも言わない。
 主君の言葉を聞くか聞かずか、小規模の宴が其処彼処で開かれ多少の浮かれ気分が蔓延する。周囲を屍に取り囲まれていようとももとより野武士あがりが大半を占める田舎の出、今更、都の雅に影響などされてなるものか。
 つい先日までその『風雅』に犯されていた感覚を何処へ追いやったものか既に空気は数ヶ月前の入京当時の装い。織田家当主を迎え入れた足利義昭も彼の訪れを喜びこそすれ疎ましく感じる様など少なくとも現時点では微塵も感じられなかった。
 宛がわれた奥の間でひとり静かに杯を傾けながら。
「………いないようだな」
 信長はぽつりと呟いた。
 普段ならば何も言わずとも傍に控えているであろう部下を今日はほとんど見かけない。
 だが、何処にいるのかは察しがついた。年末から今日に至るまでの間に、本圀寺においてどのような事態が発生していたのかは木下・明智の連名で―――正しくは、竹中半兵衛重治の名で―――送られてきた書面から読み取ることが出来た。そして、信長が文面の裏の意味まで読み取ることを見越してあの軍師は文を送りつけてきたのである。全く、憎たらしいことこの上ない。
 そして知ったのは、実際に対面することなく逝ってしまったらしい白拍子の存在。
 口元を細く歪める。
「―――惚れてたのか」
 誰に焦がれようと誰を慕おうと自由だ。当人の戦意に関わりあればと頓着するほどの気概もなく。
 ただ、酒の慰みに思うことは。

「生き別れと、死に別れの、どっちがマシだか分かりゃしねえ………」

 傾けた杯から酒が零れ落ちる。
 落ちた雫は地面に染み込んでどんよりと暗い月影を表に描き出していた。

 


> 幕


 

「やれやれ………どうにかなったようじゃのう」
「お手数をおかけ致しました」
「なぁに。偶の騒ぎも一興よ」
 僅かに差し込む月明かりの下。
 城の表で行われている宴を余所に裏口での見送り。歳を経て尚、闊達な彼の背は頑強で、身に携えた琵琶は時に刀よりも火縄銃よりも心強い武器となる。この方には助けられてばかりだと改めて半兵衛は伽藍に笑いかけた。
「あなたの天韻がなければ私は舞いに囚われたままでした。礼を申します」
「間近で優れた踊り手の舞いを見れたは僥倖であったがの。二度はないと思うがよいぞ」
 肝に銘じます、と。
 再度、内心の相方と共に微笑みながらこうべを垂れた。
 伽藍が控えていたのは城内の奥まった一室。舞台の傍でかき鳴らす音曲は大きく、彼ひとりが音を奏でたとて何者も気付きはしなかったろう。
 それでも、聞く者が聞けば分かる。
 多少の距離が開こうとも、こころに響く音は変わらない。
 世の争いに巻き込まれることを好まぬ彼が頼みを受け入れたは単なる気紛れか。先だっての千邸での遣り取りを思い返す。あの時の軍師の憔悴ぶりを見るに見かねて情けをかけたか―――でなければ、浮世人である伽藍が何のために此処まで足を運ぶのか。
 念のための守りとして茜を傍に残しはしたが万一があってはならぬと案じていた。彼ほどの弾き手を失わせては雅事の損失も甚だしい。
 ふん、と彼は全てを見透かした瞳で笑った。
「いずれにせよ―――この戦いも、あの女の顛末も、お主の差し金であろう? 思い上がるでないぞ。宿業を変じたならば刃は己に返るものだ」
「存じております」
「その上で尚、退かぬか。難儀な奴よの」
 気侭な世捨て人は背負った琵琶の縁を叩いた。
「また宗易の館に来い、半兵衛。次の音合わせには付き合うてもらうぞ」
「伽藍殿の御気の済むまで」
 にっこりと笑い返せば更に不敵な笑みで返された。
 月の光を受けながらふらふらと立ち去る彼の足元に伸びるは黒く長い影。物陰に潜んでいたひとりの部下を呼び寄せた。
「―――茜」
「これに」
 す、と影の如く付き従う部下が静かに地に膝をつく。
「すまぬが伽藍殿の無事を見届けてくれ。明け方まででよい。戦の直後で皆、気が高ぶっている―――落人に狩られては宗易殿に会わせる顔がない」
「御意」
 軽く、頷くのみで茜は速やかに姿を消した。これで一先ずはと安堵の息をつく。
 少し、緊張が解けた所為か。半兵衛の足が蹈鞴を踏んだ。
 空を見上げて瞳を細める。頬を撫で行く風は冷たく、足元には雪が残される。無意識に着物の前をかきあわせようとして、嗚呼、未だ着替えていなかったのだなと苦笑う。身に纏った蒼い衣は月明かりを受けて一層、冷え込んで見えた。
 背後に慣れ親しんだ気配を感じて振り返る。
 先刻のくのいちよりも更に自然と背景に姿を馴染ませた部下が静かにこうべを垂れていた。告げる言葉は淡々と。
「お連れしました」
「………分かった。行こう」
 軽くねぎらいの言葉を口にして踵を返す。
 実際には聴こえないはずの弾き語る伽藍の音が遠くから響いてくるように感じた。




 自室の縁側から夜空を見上げる。輝く月は寒々しく、照り返る雪の名残は余所余所しく、響く喧騒は虚しさを掻き立てるばかりで、いつもならば進んで参加する宴にさえ足を向ける気になれない。
 嗚呼、嗚呼、情けない―――たかが女ひとりのことで。
 秀吉は唇を噛み締める。
 宴には木下組の面々が駆けつけているだろう、利家も光秀もいるだろう、何よりも信長がいる。なのに己は沈みきった気持ちを隠すことすら出来ずにこんな処で膝を抱えている。
 そっと零したため息には明らかな自嘲が含まれていた。
 てのひらを開き、閉じる動きを、ゆっくりと繰り返す。
 ―――あの、時。
 毒を呷った華子を受け止めたこの手。徐々にぬくもりを失っていく肉体を抱え、―――戦に慣れた武士であるはずなのに―――頭が真っ白になった。悲しい哉、彼女を支えるには矮小な体躯だ。すぐさま傍らの半兵衛が華子を抱え直し、脈をはかり、蘇生を試みたけれど。
 初めから分かっていた。
 彼女が、事切れていることぐらい。
 軍師を責めることも出来たはずだ。
 何故、止めなかった、何故、気付かなかった、何故、と。
 だが、それら全ては己に向けた刃となり、彼女を追い詰めたのは自分を含めた多くの「男」である。責任を他へ擦り付けるほど秀吉は落ちぶれてはおらず、かといって、素直に自らの非を認めるほど純粋でもなかった。
 急ぎ城に引き返し、戦場を縫って奥の間に彼女を安置したけれど、医師など呼んだところで何か出来ようはずもなく。
 我武者羅に周囲の敵を斬って捨てた。
 形振り構わず敵陣に突っ込んで、柄まで血に塗れた刀を半兵衛に止められる、その時まで。
 その時点で彼女のことは知れ渡っていたのだろう。小一郎も、小六も、利家も、光秀も、何も言いはしなかった。
 いつの間にか傍に控えていた茜が土で汚れた彼女の頬を拭い、衣服を整え、化粧を施して。
 戦の大勢を見て取った後に安全な場所に避難していた将軍に報告に行った。
 敵を追い払ったことと、もうひとつ、彼女の命が費えたことを。
 事実を告げれば哀れなほどに将軍はうろたえた。嘘か、真か、誰の所為で何の所為でいつどのような形で―――鬱陶しい程に纏わりついてくる将軍の相手は主に軍師が勤めていた。
 だから、それはいい。
 将軍の愚かに動転する様などどうでもよかったのだ。
 ただ。
「華子殿は奥の間にいらっしゃいます。別れを告げに参りますか」
 静かな声で落とされた半兵衛の提案に。
「う、む―――し、しかし。死は穢れであるぞ。既にこの城は数多の死で溢れておる。その最中に更なる死に会いに行くのはこの身を思えば控えて然るべきではないのか」

 ただ、それだけの理由で。
 華子に会うことを拒否した将軍だけは決して許すことが出来ないと感じた。

 深く、息をつくのを待ち侘びていたかのように。
 わざと音を立てて近付いた気配が控え気味に角の柱をコツコツと叩いた。
「半兵衛か」
「はい」
 これほどに穏やかで清廉な気配を湛える人間が他にいるはずもない。視線を向けずとも気配だけで相手を判じた秀吉は開閉を繰り返していたてのひらを強く握り締めた。
「何かあったか」
 宴に参加しないのか、と暗に問い掛けたのを知ってか知らずか、部下は異なる答えを返した。
「お時間を頂いても宜しいですか。………会わせたい方がいます」
 こんな日のこんな時間に何事かと思ったが。
 他に急ぐ予定がある訳でもなし。むしろ、用事があったとした方が後に宴の不在を咎められた際の言い訳にも出来よう。もしやそれを見越しての提案かと脳裏を掠めたがいまは考えることが煩わしかった。無言で立ち上がった己の先導として半兵衛もまた黙って廊下を伝う。
 幾度か角を折れれば喧騒はますます遠い。静かに降る様な月と冷え切った空気に晒されれば口元から吐く息は白く辺りを濁す。
 カラリ、と襖が引き開けられて。
 蝋燭が僅かな光を与えるだけの薄暗い室内には平伏した人物と決して平伏すことのない人物が同席していた。面を伏せた人物にはとんと覚えがない。その背後に控えている半兵衛付きの部下の顔は嫌になるぐらい見覚えがあったけれど。
 両手をついて殆ど前のめりになっている男の背に控えた佐助は半兵衛に視線を送ると、場を心得た感じで更に奥へと身を引いた。
 半兵衛に手招きされるまま男の正面に座り、軍師自身は秀吉と男のほぼ中間に座を下ろした。部下の忍びが音も立てずに襖を閉めたことを視界の隅に留め置いて。
 促せばおずおずと正面の男が顔を上げた。
 ―――目鼻立ちは通っている方だが特徴がないと言えば特徴のない顔。瞳には泣き腫らした後の赤味が残っていて哀れさを増す。幾ら秀吉が腑抜けた状態にあるとは言え、仮にも軍の上役に名を連ねる相手と睨み合って、一歩も退く気配がないのは大したものだったが。
 深く、染み入るような息を吐いて。
 再び男の面は伏せられた。
 静かに一礼した半兵衛がそのままの体勢で秀吉に告げる。

「………白拍子殿の、主です」
「―――」

 瞬間、息が止まったが。
 それは本当に刹那の合間でしかなく。
 すぐに落ち着きを取り戻した後は驚くほど冷静な声が出た。
「―――捜すよう命じていたんだな」
「頼まれておりました故に」
 誰に、とは言わない。
 察しはついた。当人に依頼されずともいずれ彼は良人の探索に乗り出していただろう。ここ最近の軍師の行動を思えば、彼が白拍子を城から退去させようと考えていたならば、その『口実』に最適な人物を捜さない筈がないのだから。
「ずっと捜していたそうです。優れた踊り手がいるとの噂を聞きつけては東から西へと。―――追い駆けていてくれたからこそ、佐助も見つけることが出来た」
「華子殿が生きている内に会わせようと企んでいたのか」
「白拍子殿が何を望んでいるのか………察しておりました。なのに止められなかった。私の失態です」
 あくまでも己のしくじりであると揺るがぬ口調で軍師は告げた。
 大した覚悟だ。全てが我が身の至らなさ故であると認めたならば秀吉が謹慎を命じようと切腹を命じようと承諾せねばならぬ立場に彼はある。其れは、他の仲間達がどれほどに庇おうとも逃れられない絶対的な命令だ。
 秀吉にとって、事の真偽よりも信長の言葉が優先されるように。
 それでもまだ。
 ―――まだ、斬り捨てるには。
「望みは、何だ」
 問い掛けは伏せたままの男に向けられた。萎縮している如き姿勢の下で覇気を養っていたであろう相手は、ほんの一瞬、深い悲しみを湛えた瞳をこちらへ寄越したが。
 すぐにまた顔を俯けて掠れた声で呟く。
「………引き取らせて、頂きたく………この時期ならば燃さずとも日が保ちます―――故郷の、山に」
 里帰りをさせたいのだと。
 逃げ出した里、彼女の両親の住まう里、共に育った里のごく付近に隠れ住んでいた。巫子の役割を捨てた彼らを村人達が再び迎え入れてくれるとは到底思えない。なれど老いた両親に我が子の旅路の果てすら知らせずに居られようかと。
 共に暮らした庵の中で燃し、燃した果てに残りし骨を里に届けたいと。
 秀吉はきつく目を閉じた。
 理解、出来ない。
 何故、この男は彼女を手に入れて尚、静かに待ち続ける真似が出来たのか。捜し続けた心理や追い求めた心境は痛いほどに判る。
 だが、何かが。
(―――そう、か)
 この、男は。
 彼女を見つけたとしても、強引に連れ戻す気はなかったのかもしれぬ。状況を見守り、様子を窺い、幸せであったなら引き下がろうとの想いのもとに。傍に居れない我が身の苦しさよりも宿命の如く舞い続ける彼女の苦悩を想うが故に。
 その、想いの深さは。
(………似ている、な)
 すぐ、左横に座している―――青年に。
 再び目を開いた時には決意を固め、何も悟らせないほど剛直に、何も気遣われぬよう簡潔に。
「下がれ」
「秀吉殿?」
 素っ気無い言い様に少しだけ軍師が眉を顰めた。
 その視線に気付きながらも敢えて応じることはせずに淡々と繰り返した。
「下がれ。―――彼女を連れて。そして、二度と」
 語尾は震えていなかったか、表情に焦りは現れていなかったか、不平も不満も哀悼の念も後悔も遣る瀬無さも。
 周囲に気取らせることなく終わらせることが出来るだろうか。

「………二度と。この都に近付かぬことだ」

 言い終えると同時。
 膝の上で握り締めたてのひらが僅かばかり震えることだけは抑えようがなかったけれど。




 夜闇を照らす月はかなりの傾きを経て尚、地上に光を投げかける。
 通り過ぎる道の端々に転がる兵の死骸、刀を求め来た浮浪児たち、それを切り捨てた夜盗の類。こびり付いた血と肉の一部は雪に隠れているが数多の足で踏み潰された白雪は最早なんの役割も果たさず泥水まじりの汚物となって辺りに散った。
 比較的、整えられた通りを選んではいるものの。野犬どもの遠吠え、朝になれば訪れるであろう死鳥の群れ、幾ら寒さの勝つ時期とは言え早々に始末をつけねば疫病のもとともなりかねない。
 跳ね返る泥水で袴の裾が汚れるのも厭わずに半兵衛はぼんやりとそんなことを考えていた。
 秀吉のもとを訪れた後に将軍にも目通りをした。事が済んでから何故に説明もなしに運び去ったのかとごねられては面倒だったから。相変わらず穢れを嫌い遠ざけようとする将軍の姿に感じたのは侮蔑でも諦観でもない、ただの同情だ。
 背後には『華子』を抱えた男と、護衛として付き従う忍びがひとり。抱えたままでは運びづらかろう、甕に詰めて背負うなり箱に詰めて引くなり、他にも方法はあるとは告げた。されど、当然の如く相手は首を振り、硬い身体であろうとも己が両手に抱き締めて行きたいのだと応えた。
 先を進むは蒼い衣を纏った青年、続くは女を抱き上げた男、とりを勤めるは黒い衣の忍び。
 嗚呼、これは、何の道行きだ。
 死出の道行きにしては少々人手が不足しているなと口元に僅かばかりの歪んだ笑みを残し。
 京の都を見下ろせる小高い丘に辿り着いたところで半兵衛はぴたりと歩を止めた。
 歯を食い縛りながらついて来ていた男が訝しげに首を傾げる。相手の態度には頓着せずに、振り向いた半兵衛は遠目の部下を手招きする。忍びは黙って懐から大き目の布を取り出すと、比較的平らかな地面に漆黒のそれを広げた。
 事の展開が理解できずに目を瞬かせている人物に半兵衛はそっと呼びかけた。
「此処まで来れば問題ないでしょう。華子殿を、其処へ」
「え………?」
「刻限が迫っています。―――早く」
 有無を言わせぬ強い口調に。
 将軍は元より、秀吉の前でさえ揺らぐことのなかった彼の瞳が戸惑いと疑惑の色に染まった。それでも、真っ直ぐに見詰めてくる半兵衛の目に某か感じ取ったのか。
 黙って、頷くと。
 冷たくなって久しい妻の身体を布の上に横たえた。
「間に合えばよいのですが―――」
 眉間に皺を寄せた半兵衛が懐から小瓶を取り出す。白拍子の後頭部を左手で支えながら色を失くした口元にそれを寄せ、右手で傾ける。微かな月明かりの下では小瓶の中身が何であるのか、きちんと中身が彼女の中に注がれているのか、それすらも定かではない。ただ、彼女の唇の端から伝った一筋の水滴にどうか嚥下してくれと願うばかり。
 当惑の色を濃くした良人はおずおずと言葉を切り出した。
「もし………竹中、様。何を………?」
「―――間に合うか、間に合わないかは、賭けでした」
 視線は横たわる姿に向けたまま。
「彼女にも尋ねました。この無謀な賭けに乗ってくれるかと。………かなり、悩まれたようですが」
 軍師の脳裏に浮かぶのは、彼女の過去を聞かされた直後の会話。

『華子殿には死んで頂きたい。それで総て首尾よく運びますから』

 告げた瞬間に気絶されるかと思った。それでなくとも精神的に参っていた時だ、なかなかに酷いことをしてしまったと少しだけ反省する。だが、話す内、説明する内に、真剣な表情で聞き入るようになった彼女は、やがて頷きを返したのだ。
 どうせこのままでは城から逃れることの叶わぬ身。
 ならば、どれ程に危険な賭けでも飛び込んでみせましょう、と。
『それに………真実、わたくしが命を落としたとて』
 せめて亡骸はあの人に託して下さるのでしょう? と。
 いまにも泣き出しそうな表情をしながらも彼女は気丈な笑みを浮かべたのだ。常にこの表情を浮かべていたのなら―――己も、いま少し優しく接することが出来たかもしれないと思う程に。
 女とは、強い生き物だ。
 野に咲く花の如く頼りなげに見えようとも―――その芯は、殊更に。
 まさかとの疑いと、もしやとの期待。
 男は目の前の妻を見詰める。吹き抜ける風の冷たさも気にならない。眠る女の手を握り締め、胸元に抱きかかえ、叶うなら己の熱さえも取り込めばいいと。
 真摯に直向に彼女を見詰め続ける瞳の前で。

 ふ、………と。

 瞼が、動いた。
 徐々に、徐々に―――揺らめく瞳が、露になり。
 はあ、と、ひとつ。大きく、胸が上下して。
 虚ろな眼差しが天を捉え、瞳に目映い月がぽっかりと浮かび上がる。潤む眼差しの片端から流れ出した涙が頬を伝い。

「………………あやめ………」

 堪えきれず、良人が呼び掛ければ。
 ぼんやりと煙る瞳がゆらゆらと彷徨いながら線を描き、隣に座した人物の顔の辺りで焦点を結ぶ。
 瞬間、閃いたのは。
 驚愕、後悔、懺悔、悲哀、―――歓喜、安堵、平穏、幸福。
 握られたままのてのひらを、彼女もまた、握り返した。篭められた力は、本当に、本当に掻き消えそうなほど微かなものではあったけれど。
 意味なく唇を開閉させて、掠れた声音で呟いた。

「………あ―――な、た………」

「―――っ………っ」
 途端。
 感情が堰を切って溢れ出したのか。
 男は顔をくしゃくしゃに歪ませると目の前の身体にしがみ付き、年甲斐もなく泣いた。大声を上げて、肩を震わせて、亡くしたと思った時すら零さなかった涙を流し、有りっ丈の力を込めて相手を抱き締めた。
 未だ女の目は意識を取り戻したと判じるには難かったものの。
 ふ、とこちらに向けられた瞳に。
 半兵衛は静かに笑みを返した。新たに『目覚めた』ばかりのあやめもまた、頷いた。止め処ない涙を己の胸元で受け止めながら、同じく止め処ない涙を自らの頬に伝わせながら。




 きっかけはあの言葉だったのかもしれないし、もとから自分の中にあったのかもしれない。一度彼女を『死』なせた後に甦らせる、と言う、まともに考えれば成功する確率などないに等しい愚かな企みを。
 そうしなければいつまで経っても秀吉も将軍も彼女を手放そうとはしなかったろうし、彼女自身も苦しむ羽目になっただろうし、軍の風紀も乱れると思われた。
 それは紛れもない事実だ。
 だが、違う。
 分かっている。
(ただ、単に―――)
 自分たちが。
 軍師の想いも知らずに眼前の夫婦は穏やかな笑みを浮かべ深くこうべを垂れた。
「本当に―――なんと申し上げてよいのか………っ」
「半兵衛様。まことに、有り難く………」
 仮死状態に陥らせる薬を飲み、事実半日ばかり『死』んでいたあやめは未だ青褪めている。が、表情は明るく、何よりも恋い慕っていた人物が傍にいる今ならばすぐに立ち直ると思われた。あどけない笑みはまるで憑き物が落ちたかのようだ。
 申し訳ないことをした、甦れない可能性の方が高かった、負担ばかり強いてしまった―――珍しくも繰り返し謝罪する半兵衛の態度をふたりは肯定的に受け止めた。気になさらないでください、疑われずに城から逃れるためには仕方なかった、あの状況では他に選択肢などなかったのだから、と
「それに、半兵衛様」
 ほっと安堵の息をついてあやめが笑う。
「不思議ですわ。わたくし、もう―――舞いを舞いたいとは思わないのです。其処に」
 半兵衛が大小の代わりに腰に差していた蝙蝠を示して曰く。
「舞いの道具があるのに。こころが動かない。それは………白拍子としては………悲しむべきことなのでしょう。巫子となる機を失したことをわたくしは悔い、嘆くべきなのでございましょう」
 だが、愛しい者と共にあるための代償であったなら何を惜しむ必要があろう。もとより己は舞いよりも連れ合いをこそ求めた身。
 願いが叶ったと喜べど憂うなど有る筈もない。
 丘を登りて少し、国境まで見渡せる峠。
 あやめが振り返り、ほんの少しだけ名残惜しそうに目を細める。
「―――お世話に、なり申した………」
 漸う、半兵衛も静かな笑みを口元に湛えて。
「秀吉殿の命通り―――都には近付かぬよう。近隣に住まう身としてはつらいでしょうが、見つかれば庇いきれなくなる。どうか、最後まで見咎められることなく………幸せに」
「はい」
 夫婦が揃って深い礼をする。
 軍師もまた、軽く面を伏せることで応える。
 未だ目映い月明かりの下、徐々に遠ざかっていく後ろ姿を眺めやる。せめて馬でも用意してやれれば良かったと悔いたのは本当に今更だ。
 傍らに影の如く控えていた佐助が不意に零した。
「―――意外でした」
「何がだ」
「白拍子殿を引き止めなかったことが、です。あなた様ならば―――何よりも秀吉公の想いを優先すると考えておりました」
 彼女の想いも、将軍への気遣いも、自らの思惑も脇へ追いやって。
 ただ『秀吉が彼女を求めている』一点のみを最重要事項として都に、城に、白拍子を留め置き。城から狩場から果ては戦場までも彼女を同行させたがったであろう上役の我侭に何処までも付き従い周囲が反対してもその姿勢を貫く心算であったかと。
 嗚呼、それは確かに、『半兵衛』の一面だ。
 もしも己が真の部下であったならそうしたに違いないと軍師は寒空の下で皮肉げに頬を歪めた。
「………いまはもう事無きを得たようだが。傾国の美女にも二通りあるからな」
 進んで贅を望む者と、望まぬにも関わらず周囲を巻き込んでしまう者と。
 くだんの白拍子はいずれかと言えば後者であったろう。それ故に性質(たち)が悪い。初めて彼女を見た時も感じたのだ。『彼女』は駄目だ。『彼女』だけは駄目なのだ、と。

「小谷の方に似過ぎていた―――秀吉殿に、あの姿形は、鬼門だ」

 理由も理屈も理論もない単なる勘と笑わば笑え。
 いつ来るとも知れずいつまでも来ないかもしれない先の世において、彼が求める『彼女』の姿を得た時には凋落の影が迫っているであろう予感が拭いきれないだけだ。彼の傍に『彼女』が控えた折りには某かの不幸が襲う気がしてならないだけだ。あるいはこれも己が主を奪われたくない男の愚かな戯言と斬って捨てられれば良かったものを。
 否定したいのに、否定しきれない。
 佐助が零したように、秀吉が望むものであれば、事の是非も顧みずに叶えてやりたい欲求ならば常日頃から抱えているのに。
 息を吐けば周囲の冷気に当てられて白く凍りついた。
 纏わりつく僅かな湿気をてのひらを振ることでかき消して、既に点と化したふたりの背を見遣る。
「佐助」
「はい」
「国境まででよい。ふたりを見送ってはくれまいか」
「あなた様は」
「城はすぐそこだ、戻るまでの護身ならば必要ない」
 薄っすらと笑んだ主の思惑を何処まで読み取ったのだろう。
 彼の実力なら、城まであなたを見送った後にふたりを護衛しに参りますと主張することも出来たはずだ。けれども佐助は何も応えずに、ひとつだけ頷きを返すことで命を受諾した。
 いま一度、空を見上げる。
 中央に輝く月は銀色。変わらず其処にあるはずなのに日ごと異なる様を見せるのは何故だろう。地に投げかける光も時に穏やかで、時に冷たく、時に太陽よりも眩く。いま、この時に置いてはさながら蒼い海の中に居るかの如く。
(いや―――違う、な)
 纏う衣が蒼いために地上に差し掛かる影までも蒼く見えているに過ぎないと。
 唇の端に浮かべた笑みにはやはり自嘲が滲んでいた。




 ひたひたと後ろから追い駆けてくるのは己が足音のみ。
 雪の混じる地を踏みしめる毎に足袋に泥がつく。値の張る着物だのに勿体無い。されど二度と着る気も起きない衣装であるならば、いっそ細切れにしてしまおうか、いやいやそれはあんまりだ、妻のもとへ送ったならば少しは喜んでくれるだろうか―――。
 そんな、取り留めのないことを考えながら。
 半兵衛は城の裏木戸を押す。流石にこの時刻では宴も終わりに近く、城は静まり返って久しい。熱狂の後に訪れる特有の切なさが辺りに忍び込んでいるかのようだった。
 扉の向こう側では見張りに立つべき兵が酒瓶を抱えて転がっていた。戦の後こそ気を引き締めねばならぬのに大した様だと呆れながら、偶の息抜きなのだから構わないかと悩みながら、誰とも会わぬよう注意しながら庭の端から端へと伝えば注意に気を払っている兵も何名か見掛けたので、全てが寝こけている訳でもないらしいと安堵する。
 自主的な見張りについている面子のほとんどが木下組か光秀の部下であることに幾許かのこそばゆさを感じる。
 壁を辿り自室までの道を遠回りする。
 最後の角を折れたところで、半兵衛の足が止まった。
 ―――部屋の前の、縁側に。
 秀吉が座っていた。
 こちらに気付いていないのか、膝の上で両手を組み合わせ、じっと天を見上げている。僅かに眉を潜めた表情こそいつものものだが何しろ、―――時が時、なので。何かあったかと訝るのも無理はない。
 おそらく、それ以上に自分は。
『………後ろめたいのだろう』
 事の全てを彼のために為せれば良かった。なのに、そうではなかった。
 視線を合わせないままに半兵衛は声をかける。
「如何なさいましたか。このような時刻に、このような場所で」
「………如何した?」
 問い掛けに問い掛けで返される。抑揚のない声音は胸を締め付ける。
 いつもより慎重に僅かばかり彼との距離を詰め、いつもよりやや遠い位置で立ち止まる。
 自分は、自分に言い聞かせなければならない。どれだけ望もうとも上司と部下。己が支えていると思い上がることは許されない。
「峠を―――国境付近まで護衛するよう佐助に命じております」
「そう、か」
 ほんの一言のみを応えとなし、再び黙り込む。
 足元から立ち上がってくる冷気が全身を押し包む。半兵衛もまた、彼に倣い空を見上げる。未だ天は暗冥に閉ざされていたがいましばらくの時を経たならば山の端を日の光が輝かせるのだろう。
「例の………演目だが」
「はい」
「『伊勢』、だったか? 有名な詩があるんだったな」
「ええ。白玉か、何ぞと人の問いしとき、露と答えて消えなましものを―――と」
 何故、問われた時に答えておかなかったのだろうかと悔いる詩。その詩はあまりにも有名すぎて、時に、それが紛れもない事実であったことを忘れさせる。
 変わらず秀吉は前を、上を、見つめ続けている。
「………くれないか」
「―――」
「中断、されちまったからな。終わりを………知りたい」
「………ひとり、ですよ」
「構わん」
「音もない。道具も蝙蝠ひとつで―――最後まではとても」
「いいんだ」
 真っ直ぐに空を見詰めていた瞳が一瞬だけ閉ざされる。
 思い悩む気配を瞬間に漂わせ、されど、すぐに迷いを振り切るかの如く。瞬いた目の端に雫が滲んでいたことに半兵衛は気付かなかったふりをした。
 一度だけ、唇を噛み締めて。
 天を振り仰いだ。
 右手に蝙蝠を握り締め、破れた袂を払い除け、泥に塗れた裾を引き摺り舞いを舞う。
 吹き付ける風が冷たくとも身の内に熱い鼓動がある限りは。傍を過ぎる風に音はなくとも体内で鳴り響く音をこそ頼りに。踏み鳴らす足が降りる先は舞々台でなく土と雪と泥が混じれども。
 彼が願う限りは―――願うままに。
 彼の気持ちが向かう先は此処でなくとも、彼の見詰める先に居るのが己でなくとも、彼が望む音はこの身に響く音と異なれども。
 降りかかる月明かりは愈々もって蒼く冴え冴えと皓々と。
 分かって、いる。
 自分たちは。

 ―――恐れただけだ。
 自らの敬う主君の心根が変じてしまうことを。

 ………受け入れられなかった、だけだ。

 どれだけ取り繕おうとも傍からすれば深謀遠慮に思えるとも間違いなく其れこそが真実。
 いまでさえ、声もなく涙を零す主に憐れを覚えども己らを頼ってくれたことこそが嬉しくてならない。その繋がりが白拍子の存在に因るものだとしても来訪の事実のみがこころを満たす。
 地を踏みしめた足。
 舞台上ならば鳴り響く小気味良い音もこの場においては濡れた音を響かせるのみ。
 いつか。

(―――いつか)

 いつか、報いを受けるだろう。
 敬うべき主を欺いた罰が襲うだろう。
 だとすればその時はせめて、何ひとつ逆らうことなく咎を受けよう。寡ほどの価値もない身で払い尽くせる代償であるならば知恵でも力でも身体でも命でも―――こころでも。
 何処か遠くに秀吉の微かな啜り声を聴きながら。
 蒼い月の下で蒼い衣を纏いながら舞い続ける傍らで重みに項垂れていた枝から雪が滑り落ちる。いつしか差し込んだ日の光が溶かした雫が葉の端を伝い。




 白露が散った。




 

<漆> ←

 


 

完結までえらい時間がかかってしまいました………五話ぐらいで終了するはずだったのに(汗)
 連載が長期に渡ると初期と最後で文体が変化しちゃってて読み返した時につらいんですよネ。苦。

今シリーズ、一番のポイントは「不動」が出てきたことでしょうか。
お察しの通り、彼こそが『きつねつき』シリーズのラスボスとなる予定なのですっっ。
この話で既に名前だけは出てたのですが、匂わせるだけで終わりそうな気もします(オイ)

とりあえず、前シリーズまでは 秀吉 → 半兵衛 な描写が多すぎたので、
今回は頑張って 半兵衛 → 秀吉 の描写を増やしました。
ええ、増やしたつもりなんです。これでも(遠い目)
今回の行動がかなり後の確執に繋がる予定なので、彼らの試練はまだまだこれからかと。

折角(?)「半兵衛は美人」設定を採用したことだし、お約束的に女装ネタとか人身売買とか薬物とか
拉致監禁とかのイロモノ系をお色気なし(………)でやれたらなーと思ってるんですが、
やはり自重すべきでしょうか(笑)。

 ここまでお読み頂きましてありがとうございました♪

 

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