窓の外は曇天模様、間もなく雨が降り出そうかという頃合だ。果たして彼は濡れずに済むだろうかと考えて、でも、傘を持たせたんだからと考え直す。

 戻ってきた折りにはあたたかい飲み物が欲しいと言うだろう。
 自前のコーヒー豆を手にゆっくりと用意を始める。いちいち豆から挽くような面倒くさい真似をする必要はない、インスタントで充分だと生徒会仲間にも彼自身にも言われたが、だからと言ってその通りにすれば途端に彼は(絶対に認めようとはしないけれど)不機嫌になるのだ。

 全く、いまもむかしも彼は気難しい。

 そんなことを思ってマツカは微かに苦笑を浮かべた。

 生徒会用に割り当てられた一室は随分と広い。他のメンバーも各自の裁量のもと自由に行動しているため、持ち込まれたパソコンの可動音とコーヒーメーカーの奏でる音だけが静かな室内に響いていた。

 椅子に腰掛けてぼんやりと窓の外を眺める。

『………、………』

 ふと。

 誰かの声が聞こえたような気がして眉を顰めた。

 自分には曖昧な記憶と中途半端な能力しか残されていなくて、道行く中で時に『誰か』の声を聞きつけても捉えきれないことがほとんどだった。君の力には波があるねと告げたのは、かつて、直接の面識こそないものの敵陣に属していた人物で。

 ―――進んで呼びかけてくるのも彼だけだ。

 消去法を使うまでもなく思念の送信者に見当をつけて意識を集中した。

(ブルー………ブルーですか?)

 答える声はいつもと比べて遥かに小さく、頼りない。
 途切れがちな思念に何があったのかと不安が募る。一層に精神を集中して「聞く」ことに専念する。

(ブルー、どうしたんですか。あなたの声が遠い、精神が細い………)

『………ツカ………ス、は………どう、してる………』

 切れ切れでありながらも漸く声が聞こえて胸を撫で下ろす。
 しかして、内容はと言えば生徒会長に関することだったのでまたぞろ首を傾げた。

(キースなら注意報が出たのを受けて、外に生徒が残っていないかを見回りに―――)

『最悪だ』

 きっぱり、と。

 声がやたら強く響いた。

 しかし、強さを取り戻したのはその一瞬のみですぐにまた思念は弱まってしまう。
 果たして彼はどんな状況にあるのだろう。既に戦いも諍いも遠い過去の出来事となったはずなのに、何故、こんなにも。

(あの、―――あなたは、いま何処に)

『たの………、―――を、探し………を………』

(え?)

 こちらの質問に答える気配がないのは慌てているからなのか元からなのか。一心に耳を傾ければ切羽詰った彼の心情が伝わってくる。

『早く………キース、を、………! 彼、と、会わせては―――な………!』

(誰ですか? 誰と会わせてはいけないと―――)

『止めてくれ、頼む………僕は、彼、に―――』

 続けて齎された幾つかの言葉。

 概要を捉えた段階で全てを聞くまでもなく部屋を飛び出した。窓の外は暗く、振り出した雨粒が地面に模様を描いている。

 玄関口で話し込んでいる3人組のうち、ひとりの肩に咄嗟に手を置いて。

「セルジュ! 会長を見なかったか!?」

「キース先輩? 先輩なら―――」

 答えが返るより先に触れた部分から記憶を読み取る。

 雨が降り始めたグラウンド、傘を片手に歩いて行く人影、行く先は海辺。

「ありがとう、助かった!」

「え? おい、マツカ?」

 相手の反応などお構いなしに外へ飛び出した。

 事態が飲み込めていない生徒会メンバーは首を傾げつつ、ドアの外の空を見て「傘、要らないのかな」と呟いた(しきりとセルジュがマツカを心配する様を見てその場にいた同級生のひとりがえらく不機嫌になったのは、また別の話である)




 雨はいよいよ勢いを強めている。薄いバリアを周囲に張り巡らせ、ともすれば遮られそうになる視界を克服する。

(キース………!)

 足は真っ直ぐに海岸線へと向かっていた。

(無事でいてください!)








 どさり、と。

 ベッドから落ちた衝撃に反射的に呻いた。衝撃で眼鏡が外れたが拾っている暇はない。感覚が遠いおかげで痛みさえ感じない。じりじりと床を這って動かない手を先へと伸ばす。荒く息を紡ぎながらも真っ直ぐに窓の外を、彼が立ち去った方角を、見つめる。

 ああ、なんて脆弱な身体だ。

 なんと頼りない精神だ。

 彼が苦しんでいる最中に身動きひとつ取れないとは。

「はっ………」

 大きく、息を吐いて。

 両腕に力を篭めてズルズルと身体を引きずった。かろうじてマツカに危急を伝えこそしたものの、どうにも不安が抑えられない。彼と『彼』が傷つけ合う様をただ見ていなければならないなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。

(………逃げてくれ)

 唯人に過ぎない『彼』には抗う術さえない。

(傷つかないでくれ………!)

 怒りや悲しみにかられて振るう力はより以上の悲しみと苦悩しか招きはしない。かつてを例に出すまでもなくそんな厳正な事実など、彼は疾うに知っているはずなのに。

 彼が自分のことを嘘つきと思おうと裏切り者と罵ろうと構わない。

 ただ、自分は『彼ら』が傷つけ合う姿なんて、もう二度と目にしたくないのだ。




 ―――動かない身体なら朽ちてしまえ。

 いま、すぐに。

 ならばこころだけでも飛べるだろう。



 


GE/BP(3)


 


 見上げた空は明け方の青とは異なり暗い灰色を伴っている。
 手にした傘を開けば待っていたかの如くパラパラと雨が降り注いだ。いまはまだ小粒だがもう少し経てば本降りになるだろう。

 雨は、苦手だ。

 むかしから。

 透明のビニール傘ごしの世界は何処か歪んで見える。視界の先、天辺で受け止める雨粒は綺麗な円を描くでもなく只管に歪み流れ落ちて消えていく。

 自身に降り注ぐ、雨が。

 すべて血の色に思えていた時期がある。

 降りしきる雨の中で自分だけが全身を血の海に浸して行くのだ。どんな心象風景だ、この瞳は狂っているのかとそれなりに悩んだこともある。
 だが、それすらも今となれば然程こころを揺らす事実足り得ず。
 何故そんな心境に至ることが出来たのかと考えればあまり面白くない事実に行き当たるので考えたくもない。

『―――殺したいのなら殺せばいい』

 首を絞められながらも平然とした態度で見詰め返してきた忌々しい血色の瞳を覚えている。

 然程高くはないながらも急勾配の岸壁から海岸線を見渡して、流石にここまでやってくる生徒もいないかと肩の力を抜いた。
 疎らだった雨脚も徐々に勢いを強めつつある。
 いい加減、引き返そう。きっとマツカがコーヒーを淹れて待っている。インスタントでいいと言っているのに律儀にも豆から用意するような奴だ、全く本当にあいつは―――。

 と、思考を飛ばしかけていた隅で。

 鈍色を増しつつある波打ち際に金色の影を見つけた。

 目を凝らせばそれは同年代の子供のようで、この時期にこんな所に訪れる子供など臨海学校に参加している生徒しか有り得なくて、見覚えのない姿に他校生だと見当をつけつつも放っておくことなど出来なくて。

 切り立った足場から砂浜へと続く階段を小走りに駆け下りた。

 傘が、風に煽られる。

「おいっ! 放送を聞かなかったのか? 注意報が出ているんだ、早く―――!」

 呼びかける声は。

 正確に、対象の10歩手前で止まった。足首のみ海水に浸していた少年が振り向く。




 金髪、緑色の瞳、冷めた表情、同年代の。




(―――シロエ!?)




 瞬間的に浮かんだ名前を慌てて振り払った。

 違う、シロエは黒髪だ。

 確かに眼前の少年は一見して背格好や顔つきが下級生に酷似してはいるけれど、でも、『同じ』ではない。相手に差し掛けようとしていた傘は止まり静かに雫を端から滴らせる。

 互いに口を開く気配はなかった。

 ………知らない、少年だ。

 断言してもいい。初対面だ。




 なのに―――いつか何処かで会った気がしてくるのは何故だろう?




 マツカと対面した時のように。

 姉からブルーを紹介された時のように。




 妙にゆったりとした口調で金髪の少年が口を開いた。

「久しぶりだな、キース・アニアン」

「キース………アニアン?」

 眉を顰める。

 間違いなく自分は『キース』だが『キース・アニアン』ではない。
 家督制度やら離婚後の姓名の管理やら様々な議論が成された挙句、半世紀ほど前から須らく『姓』は廃止されている。個人を区別するのは『名前』のみだ。

「人違いではないのか」

「人違いじゃないさ」

 断定的に少年は話す。

 自身も尊大なのは承知しているが、何故に初対面の人間にこんな高圧的な態度を取られなければならないのかと首を傾げる。おそらくは年下、一般に年下は年上に敬意を払うべきではないのか、そもそもからしてこいつの瞳を見ていると、何故か神経がささくれ立つような感覚に襲われる。

 気に入らない。

「………初対面だ」

「分からない、と」

「分かってたまるか! 貴様は―――!!」

 ぐしゃり、と。

 海水から引き上げられた少年の右足が砂浜に跡を刻んだ。そこで初めてキースは、彼が靴を履いていないことに気がついた。

 ひどく頭が痛む。

 遠のいていたはずの感覚がぶり返してくる。

 降り注ぐ雨はすべて血の色、この両手も朱に染まり、足元に転がるのは見慣れた―――。




(奴の名は)

(ジョミー・マーキス・シン、だ)




「………ジョミー、マーキス、シン………」

 脳裏に閃いた言葉を意味も解さずに繰り返した。

 途端、能面のようだった少年の面に笑みが刻まれる。

「覚えているじゃないか。どうして知らないふりをする。それで過去から逃れられるとでも思ったのか」

「過去? ―――何のことだ」

「誤魔化すな。お前は知っているはずだ」

 痛み始めたこめかみを右手で抑える。

 痛い。

 頭が痛い。

 後退しながら震え始めた両手で傘を畳んだ。頭上から降り注ぐ雨は勢いを増していたけれど、その感覚だけが確かな拠り所と思われた。

 畳み終えた傘を剣の如く相手に突きつける。

「何のことか、さっぱりだ! いい加減に訳の分からん話はやめろ!!」

 相手は動じるでもなく緑の瞳をただ細めて、ひどく静かに呟いた。

 ―――覚えていないのか、と。

 記憶の錯綜、思い出せない過去、囚われようがない未来、そうとも、お前が『忘却』を選択したとしてもあのひとなら容易く受け入れるに違いない、と。

 じゃりじゃりと足音を立てて少年はこちらへと間合いを詰める。

 視界を遮りそうな雨も彼にとっては何ら障害にならないようだった。

「よくも忘れられたものだ。直接に手を下したくせに、嘲笑ったくせに、命を、奪ったくせに………!」

「っ!!」

 烈火の如く燃え上がる瞳に射竦められてこめかみが刺すように痛んだ。

 赤い星、暗闇、宇宙、赤い戦艦、黒い十字架。

 倒れ行く人々の悲鳴と怨嗟の声と愛惜の念と―――。

 なんだなんだなんだこれはなんだなんなんだこれは!!

(どういう原理だ………!?)

 何故、自分の脳裏に、まるでその場に居合わせたかのような映像が浮かぶ!?

 けれどもこれは『中枢』ではない、『核』ではない、『要』ではない。
 過去の記録映像を無理矢理に頭に捻じ込まれているかのような違和感。そうとも、これは『自分』の記憶ではない。

「ブルーを―――覚えているか」

 その名を口にする時だけ少年の視線が僅かにやわらいだ。

 じりじりと下がり続ければ背中がコンクリートの壁へと辿り着いた。正直に答える義理はないと思いながらも胸中に湧き上がる正体不明の衝動に押されて口を開く。

 ブルー?

 ―――『ブルー』のことか。




「………ブルーなら。腐れ縁だ」




 口にした瞬間、耳元で鳴った炸裂音に反射的に目を閉じそうになった。

 相手から視線を逸らすことは出来ない、が、おそらくはコンクリートの一部が砕けたのだろう。がらがらと頭上から落ちてくる破片がそれを物語っている。静かに佇む少年の瞳だけが圧倒されそうなほどの殺気を放っていて、「尋ねたのはそっちだ」と当然の反論を行うことさえ憚られる。

 彼、は。

 何かを確かめたいくせに、確かめたくなくて苛立っているらしい。

 てのひらを握り、開くことを繰り返し、極力感情を抑えようとしているのか相手は深いため息をついた。

 だからか、と呟きながら。

「だから傍に居られるのか。知らないから。思い出していないから。守られているから。叶う限り無知で無垢な存在たれと、まるで―――まるで………っ!!」

 ―――いままで。

 シロエは攻撃的な態度を取ると思っていたが、訂正しよう。
 眼前の少年から向けられる敵意と比べれば奴の反応など実にかわいいものだ。ブルーの「構ってもらいたいだけだよ」との発言を信じてもよいと思えるほどに。

 少年は静かに右てのひらをこちらへと掲げる。

「お前のような奴でも、消えれば悲しむ人間がいる」

「………」

「他の誰が惜しまずとも―――あのひとは、きっと」

 返答を期待しているとは思えない。
 いきなり現れて大した名乗りもなしに敵意をぶつけられて、本来ならば怒りにかられるのはこちらのはずだ。
 なのに、怒りよりも戸惑いが先に来る。

 知らないはずなのに名が浮かび、会ったこともないのに覚えがあり、憎まれる理由も分からないのに納得しそうになる。

『ブルー』が原因で追い詰められる事態に陥っているのだと察しがついても身動きが取れない。

 背後は切り立ったコンクリの壁、右手は海辺、左手は砂浜、正面には正体不明の敵。

 ………敵?




 誰、の『敵』、だ?




「っ!!」

 何かが光った瞬間、咄嗟に傘を垂直に立てて右目を庇った。

 鋭い切断面を晒しながら鈍い音を立てて傘の柄が真っ二つに割れる。

(いまのは何だ!?)

(壁を壊したのもこの力か)

(超能力? ESP? 違う、これは―――)




「サイオンか!」




 覚えのない単語が口から零れた。

 サイオンなんて言葉、何処で聞いたんだと訝しむより先に役立たずと化した傘を制服のベルトに突っ込んだ。前髪から滴り落ちる雨の雫が鬱陶しい。

「命までは取らない」

「信じられるか。目から先に潰そうとは大層なご趣味じゃないか」

「お前が、両目を携えているのが気に喰わないだけだ!!」

 緑の瞳が痛ましげに歪み。




『―――あのひとの瞳を奪ったくせに!!』




 怒号とも悲鳴ともつかない叫びが大音響で脳裏に響き渡った。

 足元がふらついた瞬間を狙ったように何らかの『力』で弾き飛ばされた。背中を壁で強打して呻く。少年が砂を踏みしめる音が何故か雨音よりも強く聞こえる。

「避けるな。加減ができない」

 望めばヒトすらも引き裂くことが出来る。

 引き裂かれたくないのなら、無駄な傷を負いたくないのなら、素直に右目を差し出せと奴は言う。
 全く、とんだ交換条件だ! 表向きは素直な少年に見えるのに随分と歪んだ性格を晒してくれるじゃないか。
 だが、どれだけ理不尽を嘆いたところで本気で抗えない己を訝しんだところで状況は変わらない。

 遅かれ早かれ己の右目は握り潰される。

 血を流したまま砂浜に放置される。

 ありありと思い描ける未来図に笑いたくなった。

「がっ………!!」

 右目部分が火のように熱くなった。無意味と知りながら両手で顔を覆う。

 痛い、熱い、焼ける、痛い痛い痛い痛い!!!

「あのひとも、痛かったんだ。なのに………!!」




 ―――『死』に至るほどの痛みを与えておきながら、何故、無関心に『生』を紡げる!?




 頬を伝う雫が雨によるものか溢れ出した血によるものか判別がつかない。

 一体、自分が何をした。

 恨まれるほどの何をした。

 理由も知らぬままに奪われる、理由を知らないが故に詰られる、理由、理由、理由!
 そんなにも理由が大事か原因が全てか自分が元凶だと言うならば事実の一端も知らせもせず一方的に追いやる貴様は卑怯ではないのか!

 目の前の少年の姿に、別の誰かが重なる。

 母の名を、―――の名を、呼んで。

 目に見えない力で自分を吹き飛ばした『誰か』。此度とは違い、あの時の少年―――青年? ―――は、確かに自分を殺すつもりで。

(………っ!!)

 己は、呼ぶべき名前を知っている。

 呼んだ、のだ。

 あの時も。

 確かに、『自分』は。

 熱い痛い苦しい助けてくれ誰か助けてくれ誰か誰か誰でもいい誰でもいい誰でもいい訳じゃないんだ『お前』だ『お前』が助けに来い早く!!




(………カ!!)




 瞳を覆う熱が沸点に達そうとした瞬間。




「キ―――ス!!」




 懐かしい声と共に右目の圧力が掻き消えた。



 

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※WEB拍手再録


 

ジョミーがキース暗殺に走るトォニィのようで「あっちゃー」って感じです。反省。

 

ひよこキースの一人称を「私」にするか「オレ」にするかで激しく考え中。

このシリーズでは「姓」は存在しない設定なので「ソルジャー・シン」とか

「アニアン大佐」と呼べないのがちと残念です。てゆーかこの法則で行くとマツカは「ジョナ」と

呼ぶべきだったんじゃないかと以下省略。

 

ちなみに、セルジュがマツカを心配する様を見て不機嫌になったのは『風木』の

ジルだったりします(どうでもいい裏設定)

 

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