世の中は様々なもので満ち溢れている。同時に、人間の好みも様々に分かれている。誰かがそれを好ましく思ったとしても他の誰かにとっては憎むに値するものかもしれない。
 住んでいる地域や生活環境にも影響は受けるだろう。常日頃から太陽に照らされている者たちは太陽よりも月に惹かれるだろうし、寒い地域に住まう者たちは太陽に焦がれてならないに違いない。
 つまるところ自分の好き嫌いもそういった人間の他愛無い感情のひとつに過ぎないのだ、と、先刻から何度目かになる説明を己自身に言い聞かせた。でなければこの足はいつまで経っても動こうとしない。空から降り注ぐ雨が忌まわしくてならないどころか触れることすら若干の恐れを抱いているだなんて流石に打ち明けづらい。人気のない学校の正面玄関から空を見上げてこっそりとキースは溜息をついた。
 均等に降り注ぐ水分は地面を濡らし、人工の歩道を歩きづらいものにしている。行き交う生徒たちの波もいまは途絶えて遠目に見えるのは街の人々の色とりどりの傘ぐらいのものだ。
 無意味に留まっていれば生徒会の連中にどやされる。どうもこの学校の生徒会は威圧的と言うか、腐敗しかかっているようで気に掛かる。
 ここ1年ほど連中の動きを見ていたが生徒よりは教師に阿るばかりに見える。生徒の受けを狙うのも考えものだが上から言われるままに規則を強めたところで何になる。自由意志の尊重と規律との両立は、どれほどに時をかけようとも解決の得られない永遠の命題であるに違いないとしても。
 ともあれ、現生徒会の言い分や手法に一定の理解を示しはするが、キースにとっては聊か負の側面ばかり目立って感じられるのも事実だった。
 今度の信任投票時は不信任に投票してやろうか、あるいは―――あるいは、不満があるならば。
 不手際を咎めるなら自身がそれ以上のことを出来ると証明しなければならない。文句だけなら誰でも言える。何一つ出来ないくせに不満だけ並べ立てるなど、そんな誇りのない真似をするなど死んでも御免だ。
 鬱々としたことを考えながらやっとの思いで傘を開いて歩き出す。真っ直ぐに前を見据え、足が止まらないように気を張る。

 何故かは分からない。
 何故かは分からないが―――自分の目には、むかしから、雨が血の色に見えていた。

 現実にはそんなこと有り得るはずがないし、単なる気分の問題だということも知っている。水道水や水槽の水、川や海なら透明な青以外のなにものにも見えないし、泳ぐ事だって出来る。
 それでも、何故か。
 天から降り注ぐこれだけはむかしから血の色に見えて仕方がなかった。雨が降ってくると無条件にこうべを垂れたくなる。胸が締め付けられるように痛み、時に眩暈に襲われ、吐き気がする。何に向けたかも分からない懺悔を捧げたくなる。
 魂の存在だの転生だのは胡散臭いことこの上ないが、もし過去生というものがあったなら、自分はよほど何かを悔いていたのだろう。満足した人生を送ることと、だから何一つ後悔はないということとは別のはずだから。
 他人からすればどうでもいいことだ。何がどう見えていても気にしなければいいだけの話だ。
 ただ、そこに幾許かの寂寥を覚えるだけで。
 幼い頃、自分の目で捉えた光景をそのまま両親に伝えてひどく不気味がられて以来、なんとなく他者に頼ることを避けてきた。
 両親の愛情は目が不自由な姉に常に優先して注がれている。不満はない。彼女には愛される権利がある。自分は幸いにして五体満足で、多少は淋しくとも生活に不自由がある訳でもなく、住む場所は提供されている。
 だけど。

 たぶん自分は、あの家から早く独立すべきなのだ。
 なんとなくそう思った。

 帰宅を意味する言葉と共に玄関の戸を開ける。ぼんやりと灯りがともった室内はそれでも外よりはやわらかくあたたかな雰囲気を湛えている。
「………?」
 玄関に見慣れない靴が置いてあって首を傾げる。この家に姉の友人や両親の知人が訪れることは滅多にない。自分のものよりやや小さい、雨を潜り抜けて来たにしては清潔な印象を与える白い靴。
 零れてくる軽やかな笑い声に惹かれるようにドアを押した。
 入ってすぐ、正面のソファに腰掛けていた姉がにっこりと微笑んだ。薄茶色の瞳は極端に視力が弱く僅か数メートルの距離ですら対象を見分けることができない。彼女に自分を認識してもらおうと思ったら、それこそ、恋人もかくやというばかりの距離まで近づくより他はない。
 けれども、目が見えないことなど感じさせない確かさで彼女は真っ直ぐにこちらを見遣る。
「おかえりなさい。キース。学校は楽しかった?」
「………いつも通りだ」
 微笑む姉―――フィシスは、こころなしかいつもよりも上機嫌なようだ。随分と話し込んでいたのだろう、薄っすらと上気した頬がそれを物語っている。
 姉が上機嫌なのは客がいるためかと、こちらを振り向いたっきり沈黙を貫いている相手を見つめた。
 ぼさぼさの頭に今時珍しい瓶底眼鏡の子供。何故かシーツで全身をグルグル巻きにしている。一見して何処の浮浪児だ? との印象を受けるが、よくよく見れば髪の毛や肌の色艶も綺麗なので単純に当人がズボラなのだろうと推察される。
 故意にこの格好をしているならかなりの狸だなとこっそり考えていると、ようやくといった感じで微笑まれて。
「はじめまして。お邪魔してしまってすいません」
「………いや」
 途端、なんとも表現し難い戸惑いが広がった。
 よく分からない。
 よく分からない、が―――こんなのは偽りだ、と言うような。
「キース」
 穏やかに姉の声が割り込んできた。
「あのね、わたしが雨の中で倒れそうになったところを助けてもらったの。そうしたら服がびしょ濡れになってしまったからウチに寄ってもらったのだけれど」
 なるほど。だからシーツに包まっているのか。彼自身の衣服は懸命に乾かしている最中とみた。
 悪人ではなさそうだと見当をつけてこちらから手を差し出した。
「弟のキースだ。姉が世話になったようだな。ありがとう」
「ブルーです。世話だなんてそんな、僕はただフィシスさんが足を滑らせそうになったのを―――」
「呼び捨てではなかったか」
「え?」
 ふわり、と握っていた手を離して相手が戸惑いの色を濃くする。
 実は問い掛けた当人も少々驚いている。
「………フィシスを、呼び捨てにしていなかったか?」
「初対面に近い方の名前を呼び捨てにするほど無礼ではないつもりですが」
 心底おかしそうに少年が苦笑をもらした。
 単に、彼が姉の名前に敬称をつけた時に「違うな」との感想を抱いただけなのだが。このふたりが、互いに敬称をつけて会話するのは相応しくない気がする。
 敢えて尊称をつけるなら、もっと、日常ではあまり使わない―――………。

「―――ソルジャー・ブルー?」

「え?」
 今度は、明らかに。
 虚をつかれたらしく少年の動きが止まった。
 姉が口元に手を当てて驚きを露にしている。
 何か妙なことを言っただろうか? と首を傾げたその後に、果て、いま自分はなんと口走ったのだろうかと間抜けたことを考えた。ボケが始まるには早すぎると自分で自分に呆れる。
 未だ首元までシーツに包まったままの少年が眉を顰める。
「………君は」
「どうかしたか?」
「覚えてないのかい」
「何をだ」
 無意識に零れ落ちた言葉など記憶の隅にも残らない。まじまじと見詰めてくる年下の相手に気圧された訳ではないが、今度は少しばかり頼り無さそうにキースが首を捻った。
 やがて。
 堪えきれないように肩を震わせながら少年が笑みを零した。
「………なるほど。これは驚いた。不確かにすぎる記憶の残骸と言うヤツか。罪も後悔も報いも救いも何一つ刻まれていないらしい。無垢と喩えるには少々酷かもしれんがね」
「ブルー」
 それまでの落ち着き払った態度を改めるかのような声音に姉が嗜めるように名前を呼んだ。
 先刻まで纏っていたほんわりとした空気は消え去り、冷たく差し込む青い月のような気配が彼を包む。身につけたものがなんであれ、もとの権威と尊厳は消し去ることは出来ないと証明するかの如く。
「すまない」
 歯切れ良く彼はのたまった。
 再度、右手を伸ばして触れ合いながら。
「少々見くびっていたようだ。君に誤魔化しなど不要だろう。非礼を詫びる」
「―――別に、構わん」
 年長者に対するものとしては、むしろいまの態度の方が傲岸不遜に過ぎて非礼に当たる。
 だが、彼に関してはこうしてやや尊大に話している方が好ましく思われた。丁寧な物腰の内にある種の棘のようなものが含まれていたとて、相手を痛めつけたり懲らしめようとの意志の篭められていない言葉がこころに傷をつくる可能性はほとんどない。
 くつくつと耳に残る笑いを彼は零す。
「不思議な気分だよ。まさかこうして君と握手をかわすことになるとは思わなかった」
「握手とは害意がないことの表れだ。それとも貴様は敵意を抱いている相手にやすやすと利き手を差し出すのか」
「左利きかもしれないのに?」
「一般概念だ」
「触れただけで相手を倒す方法もある」
「柔術でも習っているのか」
「生憎と僕は運動音痴だ」
 訳が分からんな、と僅かに眉を顰めると何が面白いのか少年は笑みの色を濃くした。
 触れることすらなしに相手を倒す方法だってあるんだよ、いまの君は知らないけれど、知っていた方法を取れば、この世の何処にも『絶対に安全な場所』など存在しないのだ。
 などとからかう子供の戯言にいつまでも付き合ってやるほど酔狂ではない。必要以上に留まっている必要性も感じない。軽く会釈をして、後は自由にしてくれとばかりに扉を閉じた。少なくとも服が乾くまであの少年は家にいるのだろう。その間、部屋に篭もっていればふたりの邪魔をすることもあるまい。
 邪魔をせずに済む―――との、思考回路に。
 実の弟がいきなり現れた赤の他人に遠慮する理由があるのかと少し考えた。
 しかし、自分が隣にいる時よりも姉が喜んでいるように見えたので、席を外す理由などその程度でいいに違いない。
 自室に入り、細かなことを考えるより先にベッドに倒れこむ。
 目を閉じれば窓の外の音が密やかに聞こえてくる。

 未だ振り続けている、―――雨。




 夢を、見た。
 遠い日の夢だ。

 幼児教育の最中に、なんでもいいから思い浮かんだものを描いてみろと言われた。
 命じられるままに手の動くままに描いた拙い絵は周囲のおとなに不気味がられた。
 赤い船と、赤い服を着たひとびとと、赤い河を描いたから。
 親の愛情が足りないとか深い傷を負っているらしいとか、またぞろ両親は呼び出しを受けてイヤな思いをするのだろう。彼らは決して自分を疎んではいなかったが、面倒な子だと感じているに違いない。

 だから。
 だから早く、自分は。

『まあ、キース。すてきな絵ね』

 ただひとり。
 目のよく見えない姉だけが自分の描いた絵を見て微笑んだ。

 ね、ほら、ここに月と地球があるでしょう? きっとみんなで宇宙に旅に出た時の絵なのね。

『とても、すてきな絵よ』

 あかはいのちのいろだもの。きらいなはずないじゃない。

 そう言って、もう一度だけ微笑んだ。




 ぼんやりと開いた視界に映るのは暗いままの天井だ。枕もとの時計を見て、自分が眠りに落ちていたことを確認する。
 懐かしい夢を見たな、と、呟いた。
 素っ気無い両親の代わりを務めるかのように姉はむかしから優しかった。
 優しすぎる、と思えるほどに。
 彼女がいなかったら、自分はとうのむかしに家を飛び出して学校に通うことすらしなかったろう。
 いや、管理体制の行き届いた現代において未就学など有り得ない。適当な施設に保護されて、教育されて、―――何処かのセンターへ放り込まれていたに違いない。
 窓の外は随分と暗くなり、帰宅した時と同じように静かな雨音が辺りを満たしている。ひとによっては静謐と安寧を覚えるだろう空間。自分も雨が降る様さえ目にしなければ割りと心安らかにいられるのだがとキースは苦笑する。
 階下から音がする。客人が暇を告げるのかもしれない。
 見送りくらいしようと階段を下りていくと、玄関でやや所在なさげに佇んでいる少年と目が合った。
 相変わらずのぼさぼさ頭。だぼだぼのセーターとズボンはどう考えても彼の丈に合っていなかった。手元の手提げ袋を見る限り、結局、乾燥が間に合わなかったのだろう。そんなに激しく濡れたのかと聊か呆れるのを禁じ得ない。
 少年が密やかに口元をほころばせる。
「長居をしすぎたね。そろそろお暇させてもらうよ」
「構うな。お前がいると姉も機嫌がいいようだ。また、来ればいい」
 お土産を持たせたいからとフィシスは奥に何かを取りに行ってしまったよ、一体なにをくれるつもりなんだろうね、との問いに、知人から譲られた菓子でもお裾分けしたいんだろうと答えれば、嗚呼、甘いものは好きだよと心底おかしそうに笑われた。
 くい、とセーターの襟元を引っ張った彼に悪気はまったくない。
「服。近い内に返しにくるよ」
「そうしてくれ」
 フィシスが知ってて渡したのかは分からない、けれど。
 目の前の少年が着ているセーターは、昨年の誕生日に自分が姉からプレゼントされたものだ。貸すのはまだしも渡してしまうのは流石に惜しい気がした。
 途端、なにかを察したのか、少年は口元に手をやるとものすごくバツが悪そうに顔を俯けた。
「………すまない」
「何がだ」
「気付かなかった僕の落ち度だ。これは僕が着ていいものじゃない。君の宝物だ。謝罪する」
 言い終えるや否や、彼は眼鏡を外してズボンの端に引っ掛けると早々にセーターを脱ぎ捨てた。
 呆気に取られているキースの前でセーターを綺麗に折り畳み、手提げ袋の中からまだ生乾きだろう上着を取り出して羽織り、代わりにセーターを手提げ袋に仕舞いこんだ。
「洗濯だけじゃ物足りない。きちんとクリーニングして、ふかふかのほわほわにして、あったかな思い出がしみついたまま返すことを約束する」
「………着て帰らなければ意味がないんじゃないのか」
「風邪などひかない。フィシスは僕が病弱だと思い込んでるんだよ」
 心配してくれるのは嬉しいけど過保護は困るかな、と。薄っすらと微笑む少年と目があった。

 ―――瞬間。
 息を呑む。

 真っ直ぐにこちらを射抜く視線、底知れぬ闇を湛えた眼差し、穏やかに凪いだ瞳。あまりに印象深く、あまりに強烈で、だから眼鏡なんかで隠していたのかと納得するしかないような。
 胸が痛む、吐き気がする、眩暈がするほどに彼の目は。

 


ブルースカイ・クリムゾンレイン(2)


 

血の色、だった。

 

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※WEB拍手再録


 

最後の行だけ反転仕様。

キースが中一(もうすぐ中二)、ブルーが小六(もうすぐ中一)の時代にタイムスリップ。

ねこ被ってるブルーは書いてて寒気がしました(苦笑)

 

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